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【大場一央の古義解~言葉で紡ぐ日本】荻生徂徠「非合理」前提とした楽観家

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 その代相応の器量の人なしといふ事は、道理に於てこれなき事也『政談』

 新井白石が6代将軍徳川家宣の下、「正徳の治」と呼ばれる大改革を行っていた時期、これを苦々しく眺めていた男がいた。5代将軍綱吉の側近、柳沢吉保に仕え、「古文辞学」という学派を創設した儒学者、荻生徂徠(1666~1728年)である。

 徂徠は江戸の医者の家に生まれた。父は、館林藩主だった頃の綱吉に仕えていたが、徂徠が14歳のときに追放され、徂徠は25歳(一説には27歳)まで上総国(現千葉県)の農村で生活した。

 31歳で柳沢吉保に仕え、500石取りに出世したが、ひたすら漢籍に訓点をふったり、綱吉の伝記原稿を書くだけの扱い。しかも44歳で綱吉が死去し、柳沢吉保も失脚。その後は私塾を開いたものの、生活は貧窮した。その様子は「徂徠豆腐」という落語にもなっている。

 55歳で8代将軍吉宗の側近だった室鳩巣(むろ・きゅうそう)の仕事を引き継ぎ『六諭衍義(りくゆえんぎ)』に訓点をふることからはじまり、後に吉宗から諮問を受けるようになる。そうして政治に携わり、武家諸法度の改訂や「足高の制」による人材抜擢を実現するなど、江戸中期から後期にかけての制度的な基礎を築いた。

 長い不遇生活を経ての政治参画、そして大きな功績を挙げるという流れは白石に重なる。しかも、徂徠の献策には「幕府官位制」や軍制改革など、白石と重なるものも多い。にもかかわらず徂徠は白石を「無学」「文盲(ぶんもう)」と罵倒し、両者は偶然、同じ場所に居合わせても口もきかずに避けて通るほど険悪な仲であった。

 それはなぜか。

 白石は膨大なデータを集積分析し、段取りを組み、政策を立案し、一気に推し進めていく、いわゆる事務の鬼であった。論理によって裏打ちされた政策の実行を自らの手腕で行う傍ら、有無を言わせぬ無言の圧力がある。それ自体は極めて合理的ではあるが、人間は合理的ではない。つまり「正しさ」とは別の、人情であるとか、しがらみであるとか、あるいは野心やプライドといった、非合理的な行動原理で動いている。白石はそれを徹底的に排除しようとする。

 一方で徂徠は、人間のそうした非合理的な側面を前提とした上で、社会制度を整え対応しようとする。それはいわば「箱」のように機能する。例えば、年功序列や終身雇用という箱が用意されれば、人はその中で組織に忠誠を尽くし、集団の論理に染まることで立身出世を図るようになる。反対に成果主義・起業促進・個性尊重という箱が用意されれば、人はその中で能力を磨き、うめきながら人目を引く個性を作り上げ、自己実現を図るようになる。制度によって人の関心のベクトルを操作することで、社会の形を作っていく。そうすれば、人の非合理性を生かし、まるで彼らがはじめからそれを望んでいたかのように動かすことができる。人々が生活を通じて無意識に歩んでしまう制度を徂徠は「道」と呼び、道の設計こそ政治だと考えた。

 そうした徂徠からすれば、白石のような統制は、押しつけがましいおせっかいにしか映らず、いつか反発によって破綻すると思われたのである。政策は極めて似ているのに険悪なのは、正に彼らの本質的な人間観に由来していた。

 徂徠は言う。「人材が枯渇した時代だという人がいるが、そんな道理はない」。人は締め付ければ指示待ち人間になるし、自由にやらせれば工夫を重ねるようになる。要は上に立つ人間のやりようで、人は有能にも無能にもなる。自由にやらせれば勝手に行動して組織を乱す者が出てくるという人もあろうが、それはそのときに罰すれば、おのずから自滅するだけであって、上に立つ人間の規則に対する考え方がぶれなければよいだけのこと。その不安自体が器の小ささを示している。

 徂徠は来るべき幕府の危機がそう遠くない時期、それも九州から起こることも予見していた。だが徂徠はそれすら時代のせいにすることなく、あくまで自分次第という楽観性を失わなかった。楽観的であるということは、本当は強いからこそできることであり、その強さがなければ組織や環境は変えられないのである。

【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

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