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【大場一央の古義解 言葉で紡ぐ日本】(10)安井息軒 「時代の常識」に囚われない

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 安井 息軒(やすいそっけん)

 君子の道長(ちょう)ずれば、則ち異端必ず消(しょう)するは自然の数なり 『弁妄(べんもう)』

 谷干城(たてき)、陸奥宗光、明石元二郎ら、明治期の大立者(おおだてもの)を育成した飫肥(おび)藩(現宮崎県)出身の古注学者、安井息軒(1799~1878)は、21歳で大阪に遊学し、その後、江戸に上る。古賀●庵(とうあん)や松崎慊堂(こうどう)に師事し、昌平坂学問所では、その学識を称賛された。古賀が肥前(同佐賀県)、松崎が肥後(同熊本県)の出であることを思うと、江戸時代末期の九州の思想的な成熟ぶりがうかがえる。

 息軒が学んだ「古注学」とは、古典を学術的に研究する学問である。漢字の意味や使用頻度、文体のくせなどを、時代時代のテキストから抽出、分析し、できるだけ当時の状態に戻して理解しようとする。その意味で、息軒は近代漢学の祖とも言われている。

 ぱっとみて、まるで現実の役には立たなそうな学問であるが、息軒は自身の学問的姿勢によって、同時代人が陥りがちな「時代の常識」というバイアスに囚(とら)われず、社会はもちろん、自分をも客観視できると考えていた。

 故郷の飫肥藩に戻ると、同じく碩学(せきがく)だった父、滄洲(そうしゅう)とともに藩政改革に携わる。しかし、保守派に睨(にら)まれて藩を追われ、再び江戸に上る。その後、息軒は昌平坂学問所や、私塾「三計塾」で教育に取り組むかたわら、水戸藩(同茨城県)の藤田東湖(とうこ)ら当時第一線の学者と交流を重ねる。

 世は黒船来航による混乱が始まっていた。

 息軒は、『海防私議』をはじめ多くの警世書を著した。東湖を介して水戸藩主、徳川斉昭からも時事問題について諮問を受けた。斉昭は息軒を認め、書を与えるなど厚遇した。

 江戸幕府が倒れ、明治新政府が成立すると、社会の大変革が始まる。文明開化を賛美する「時代の常識」は社会を覆っていった。

 しかし、息軒の目には、物質文明を学ぶかたわらで、西欧由来のイデオロギーやキリスト教によって生活の常識が破壊され、生活の常識が侮蔑される卑屈な国家に成り下がりつつあると映った。

 日本を支えているのは、最小単位の家庭や職場の人間関係から、人としての生き方や役割までを作り上げていく君子である。彼らが出てくれば、人々の生活を破壊する変な理論や宗教は自然と退けることができる-。

 冒頭に引いた言葉をもって、息軒は弟子たちに国民生活を守るよう励ました。2千人にのぼる門弟は、それぞれの立場で臆することなく西欧に対峙し、明治日本を国家たらしめた。

 「グローバル化」を称揚する経済論理が、中世ヨーロッパのキリスト教さながらの権威を振りかざし、国民生活を振り回す現代日本において、息軒の言葉が持つ重みは大きい。

 戦後、失われつつある先人の日本人観を思い起こすため、九州・山口の先哲や彼らに影響を与えた各地の思想家の言葉を、気鋭の儒学者、大場一央氏の解説で紡ぎます。

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【プロフィル】おおば・かずお

 昭和54年、北海道札幌市生まれ。早稲田大文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。早大非常勤講師。著書に『心即理-王陽明前期思想の研究』(汲古書院)など。

●=にんべんに同

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