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【金融から世界が見える 日本が見える 久保田勇夫の一筆両断】ポール・ボルカー -インフレファイターの光と影-

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 大蔵省(現財務省)時代、国際部門で長く仕事をしたが、この間、外国の著名人との遭遇があった。相当昔のことであり、最近その人たちの死亡記事が目につくようになった。そこでは故人の業績や評価が紹介されている。その道に詳しいジャーナリストの手によるものが多く、世間受けする無難な内容となっていることが多い。ところが、現実にその人を相手に交渉したり、その人とともに仕事をした者には、それなりの感想や感慨がある。そういう者の一人として、私がこの人達に関して感じることを書き残しておくのもそれなりの意義があろうと考えている。

 その一人が昨年12月に92歳で死去した米国のポール・ボルカーである。

 米国の中央銀行である連邦準備制度理事会(FRB)議長や、国際経済担当の財務次官など多くの公的職務に就き、わが国でも「嫌われる勇気貫いた公僕」「反発覚悟でインフレ対策」などの見出しでその事績が紹介されている。

 私がこのポール・ボルカーと最初に遭遇したのは、このインフレ退治の時であった。

 ◆厳格なマネー・サプライの抑制

 ボルカーは1979年8月にFRB議長に就任した。米国は当時、経済的には二桁のインフレと失業率が続いていて、いわゆるスタグフレーションの時期にあり、物価上昇をいかに抑えるかが最大の政策課題であった。金融政策の任にあるFRBは、この物価上昇を金利の引き上げによって抑えるという政策を採っていた。

 ボルカー議長も当初は、金利の引き上げで臨んだが、なかなか効果がないということから、通貨の供給を抑えるという政策に切り替えた。いわゆるマネー・サプライのコントロールで対処しようというのである。具体的には、どんなことがあろうと、例えばその結果、金利がどうなろうと、米国経済における通貨の供給量を抑制することにしたのである。講学的に言えば、この両政策は全く別の流れの経済理論に立つものであり、両手段を平気で切り替えることは常人にはできないことであった。

 現実にはこの何がどう変わろうとマネー・サプライを厳しくコントロールした結果、米国は物価抑制に成功した。他方でドルの金利は著しく乱高下し、かつ極めて高い水準となった。米国の短期金利は一日のうちに10%ポイントも上下した日があったし、二度にわたってその水準は20%を超えた。金融の専門家であれば、これが金融市場にどれだけの混乱を招くか容易に想像できるであろう。

 ◆第二次オイルショック

 このような基軸通貨であるドルの金利の上昇と乱高下は、当然のことながら国際金融市場に異常な混乱をもたらした。特に外国為替市場は混乱し、円や西ドイツ・マルク(当時)といったドル以外の主要通貨は時の経過とともに下落し、とどまるところを知らない状況になった。

 この時期はイラン革命に端を発する原油価格の上昇期であり、後日「第二次オイルショック」と名付けられた経済・金融の混乱期であった。一バレルあたり3ドルであった原油価格は最終的には10ドルへと3倍以上に値上がりした。最も深刻な影響を受けたのは円であった。何故なら、わが国は産業のコメといわれた原油を100%輸入に頼っていたからである。もともとはイランのパーレビ国王が追放されるという「イラン革命」を発端とするものであったが、後のイラン学生による米国大使館の占領、それに対する報復措置としての米国によるイラン資産の凍結、それに対抗するイランによる米国資産の凍結、等々の展開があった。その時期における、米国による米国の物価の抑制という国内政策目的を達成するための異常な金融政策であった。

 ◆円安・円の乱高下を加速

 私はこの79年6月の人事異動で、当時の大蔵省国際金融局短期資金課の為替担当の課長補佐となっていた。そして、急激に進む円の下落をどう防止するかという「円対策」の実務の中心にいたのである。われわれは円の乱高下と際限ない下落をどう防ぐか、第一次、第二次の「円対策」を含め文字通り試行錯誤しつつ、苦労して各種の措置を実施していったのである。

 具体的には、外貨準備を積み増す為に期限の到来していた産油国からのドルの長期借入金を継続する交渉といったものから、銀行の為替持高の操作という地味なもの、法律上では自由化されていた円建て・ドル建てのシンジケート・ローンの行政指導による見直し(停止)といった乱暴な措置、更にはそれに伴い日に日に減少する外貨準備を心配しながら大量のドル売り円買いの為替市場への介入、公定歩合の引き上げといったものまでさまざまであった。

 わが国だけではなかった。円と同様にターゲットとされたマルクを持つ西ドイツも公定歩合の引き上げ、資本流入策の実施など、自国通貨の防衛策の実施を余儀なくされた。

 そういう中での金利を無視した米国の金融政策であった。その政策は異常な円安や西ドイツ・マルク安を加速させ、自国通貨の安定に向けたわれわれの努力を削ぐ効果をもたらすこととなった。

 確かにボルカーは米国にとっては、米国のインフレ対策に成功した功労者であった。その限りで世界経済の安定への貢献者ということはできよう。しかしながら、米国以外の国にとっては、いわゆる第二次オイルショックが進行しつつある時期に世界の金融・為替市場の混乱を助長した人物であることも事実である。

 インフレファイターとしての称賛の評価とともに、その世界経済に対する影の一面も記憶されてしかるべきであろう。

                  ◇

【プロフィル】久保田勇夫

 くぼた・いさお 昭和17年生まれ。福岡県立修猷館高校、東京大法学部卒。オックスフォード大経済学修士。大蔵省(現財務省)に入省。国際金融局次長、関税局長、国土事務次官、都市基盤整備公団副総裁、ローン・スター・ジャパン・アクイジッションズ会長などを経て、平成18年6月に西日本シティ銀行頭取に就任。26年6月から会長。28年10月から西日本フィナンシャルホールディングス会長を兼務。

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