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【地方は滅びず-逆転のモデル-】6次産業化(2)安定した販路が農家のやる気後押し

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赤く実ったパプリカを収穫する入江政章氏
赤く実ったパプリカを収穫する入江政章氏

 ■「あなたの取り組みで法律ができた」

 「どんなものを作っているんですか。ぜひ、お会いしたい!」

 15年ほど前の冬。福岡県芦屋町で「あたか農園」を営む安高吉明(70)に突然、電話がかかってきた。隣の岡垣町に本社を置くグラノ24Kの社長、小役丸秀一(64)だった。

 電話のきっかけは「金時にんじん」だった。

 中央アジア原産で、日本には16世紀に伝わった。いま一般的なニンジンより柔らかく、甘みが強い。食すのは関西が中心で、九州では、あまりなじみのない野菜だった。

 安高は約2・7ヘクタールの畑を持つ大規模農家だ。ほうれん草や小松菜、赤じそなどに加え、金時にんじんも栽培する。その金時にんじんが、知人を経由し、小役丸の手に渡った。

 小役丸は、ジュースにして飲んだ。驚いた。

 「こんなに甘いニンジンがあるのか!」

 グラノ24Kは、レストランやウエディングを備えた観光施設「ぶどうの樹」を皮切りに、ビュッフェ形式のレストラン「野の葡萄(ぶどう)」を全国展開する。

 「この金時にんじんなら、食材にも加工品にもできる」。いろいろなアイデアが浮かんだ。いても立ってもいられず、安高に連絡した。

 「金時にんじんも、ほうれん草も小松菜も、ぜひうちで使わせてほしい」

 小役丸は安高に申し出た。両者の取引が始まった。

 ■規格へのプライド

 戦後の高度成長と安定成長期を通じて、生鮮食品の小売りはスーパーが中心となった。バブル崩壊後のデフレ不況下で、スーパー業界の収斂が進んだ。イオンやイトーヨーカ堂に代表される超大手が誕生した。

 大きくなった小売業者は、価格や仕入れ量の決定に、強い優位性を発揮する。その結果、大きさや形が一定し、価格・量も安定した規格品が求められるようになった。

 形もニーズの一部だ。安高ら農家は、味はもちろん、形も整った野菜の生産に懸命になった。

 だが、金時にんじんの栽培は難しい。地中深く、まっすぐ伸ばすには、土を深く耕し、柔らかくしなければならない。

 安高のような経験豊富な農家でも、規格外品はできてしまう。多い年では、収穫量の4割に達することもあった。

 小役丸のグラノ24Kは、そうした規格外の野菜も買い取り、食材にしていた。

 それは安高も知っていた。小役丸からは「規格外でもいいですよ」と言われていた。

 だが、農家としてのプライドが、規格外の野菜を届けることを許さなかった。いつも形の整った金時にんじんを出荷した。

 小役丸との取引が始まって5年くらいたった頃。金時にんじんの収穫が最盛期を迎えた安高の畑に、小役丸がやってきた。テレビ局関係者を引き連れていた。

 グラノ24Kを紹介する番組の中で、収穫の様子を撮影するためだった。

 安高やパートの従業員は手際よく、形の整った金時にんじんをコンテナに詰める。不格好な物は、畑に放った。作業場に持って帰っても、仕分けする手間がかかるだけだ。いつも通りの収穫風景だった。

 小役丸が口を挟んだ。

 「捨てるのはもったいない。これも分けてください」。形の悪いにんじんを、次々と引き取った。

 「規格外品を含め、畑を丸ごとお金にする。そして地域とともに豊かになる」。小役丸の経営理念だった。

 「本当に引き取ってくれるんだ」。安高の心境に変化が起きた。

 規格外品は、安高にとって悩みの種だった。「こんなものは出せない」と意地を張っていたが、経営上は痛い。それを小役丸は喜んで買ってくれる。

 安高はその年から、市場では値段が付かないような、それでいて味はほとんど変わらない金時にんじんを、グラノ24Kに出荷するようになった。

 もちろん、グラノ側にも利益が出なければ、事業は続かない。グラノ24Kと契約農家は、収穫の時期や量などを綿密に打ち合わせし、量や価格を決める。

 グラノ24Kへの出荷は、安高が収穫する野菜の1割近くに達した。その上、規格品への波及効果もあった。

 安高の弟、澄夫(66)は、同じ芦屋町で農業を営む。平成13年に48歳の若さで、地元農協の組合長に就いた。

 組合長として、地域そして日本の農業の行く末に思いをはせた。澄夫は「グラノ24Kとの取引は、規格品にもメリットがある」と考えた。

 グラノ24Kの買い取りによって、市場に回る規格外品の量が減る。食品メーカーが規格外品を加工用に求めても、量が足りなければ、規格品を買わざるを得ない。そうなれば規格品の価格も上がり、農家の収入増となる。

 小役丸のアイデアは、規模が大きくなるにつれ、より多くの農家を巻き込み、地域振興策となった。経済産業省や農林水産省の役人が、次々と視察に訪れるようになった。

 地方の農林水産業の衰退は、地方の衰えとなり、日本という国家を揺るがす。国は、農林漁業者と商工業者が連携して新たな産業を生み出す「農商工連携」のあり方を模索していた。

 平成20年、農商工等連携促進法が施行された。法律の目的にはこう記されていた。

 「中小企業者と農林漁業者とが有機的に連携し、それぞれの経営資源を有効に活用して行う事業活動を促進することにより、中小企業の経営の向上および農林漁業経営の改善を図り-」

 小役丸が、10年近く取り組んできたことが、条文になった。

 施行後、ある経産省の役人が岡垣を訪れ、小役丸に言った。「あなたのところの取り組みが基本になって法律ができました。僕がつくった一人なので間違いないです」

 お世辞も交じっていただろう。それでも小役丸には、大きな自信となった。

 ■パプリカに挑戦

 小役丸の取り組みは、挑戦する農家の背中を押した。

 岡垣町の専業農家、入江政章(43)は平成14年、サラリーマンを辞めて、家業である農業を継いだ。長男が生まれるのをきっかけに、農業の世界に足を踏み入れた。

 入江の父、政信(69)は約1・5ヘクタールの畑で、夏場はトマトや長なす、秋から冬にキャベツや白菜を栽培していた。

 「自分たちも家に入って家族が増える。もっと収入が必要だ」。入江は新しい作物を模索した。

 そんな入江に、福岡県の農業総合試験場(現農林業総合試験場)の指導員が声をかけた。

 「パプリカをやってみませんか」

 唐辛子やピーマンの仲間のパプリカは、5年に輸入が本格的に始まったばかりだった。

 赤や黄の鮮やかな色が料理を彩り、肉厚で甘みがある。外食を中心に需要が急拡大した。

 半面、オランダや韓国からの輸入品がほとんどだった。国内で生産すれば、高く売れる。福岡県は13年、パプリカの試験栽培を始めた。

 入江は父・政信にも相談した。「パプリカなんて見たこともない」と言っていた父も、実物を見て口にすると、賛成した。

 問題は、どれだけ作るかだった。

 新しい作物を、いきなり広い面積で栽培するのはリスクが大きい。出荷量を増やそうと面積を広げれば、トマトなど主力品種に影響が及ぶ。

 半面、ある程度の量がなければ、農協や市場では引き取ってもらえない。買いたたかれる恐れがあった。

 入江は試験場の指導員に相談した。

 「岡垣で『ぶどうの樹』をやっているグラノ24Kが買い取ってくれる」。そう教えられた。量も問わず、できただけでいいという。

 本当に売り先と価格が安定するなら、農家にとってこんな良い取引はない。曇り空が晴れるような気がした。

 最初は3アール(300平方メートル)の畑でパプリカ栽培を始めた。

 問題は夏だった。パプリカは、気温が14度を下回ると色がつきにくい。逆に暑すぎると実そのものがつかない。

 パプリカ大国のハンガリーやオランダに比べ、日本の夏は高温多湿で、ハウス内の温度調節が難しい。

 最初の数年間、実が小さかったり、全くつかない年もあった。

 風通しを良くしようと、ハウス上部のビニールを開閉式に改良した。それが裏目に出て、夕立で株が濡(ぬ)れ、全滅しそうになったときもあった。

 農業でも工業でも、新商品の開発には、投資を回収できない時期がある。「いずれ花が咲いたら…」と、辛抱するしかない。

 入江のパプリカ栽培では、グラノ24Kとの安定した取引が支えとなった。

 やがて、日本の風土に合った品種改良も進んだ。比較的安定して収穫が望めるようになった。

 毎年6月末から1月までの収穫期、入江がグラノ24Kに卸すパプリカは、多い月で約30万円にもなる。近くの学校給食にも使われるようになった。栽培面積も7アールに広がった。

 「しっかりした売り先があるから安心して作ることができる」。入江は大きく実ったパプリカを、丁寧にもぎ取った。

  (敬称略)

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