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【坂東武士の系譜】第4部・激動の時代(33) 皆川俊宗 第三極目指した宇都宮城占拠

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皆川城址=栃木市皆川城内町
皆川城址=栃木市皆川城内町

 元亀3(1572)年正月、宇都宮城で不思議な事件が起きた。14日夜、皆川俊宗が宇都宮氏重臣・岡本宗慶(そうけい)を暗殺。翌日、宇都宮城を占拠した。当主・宇都宮広綱が病弱だったこともあり、しばらく宇都宮家中の実権を握った。年始の挨拶として少数で登城しながら、政敵を討ち、素早く当主の身柄を抑えたか。俊宗の手際の良さが際立つ。

 上杉謙信や北条氏康ら大物戦国大名の脅威が北関東に迫る時期。従来、上杉派・岡本と北条派・皆川の政治対立と解釈されてきた。宇都宮氏の生き残りを考え、どちらにつくべきか意見が割れていた。無論そうした側面もある。

 だが、近年、俊宗の文書が明らかになり、もう少し具体的な事情が見えてきた。まず、「細川家文書」の中に、将軍・足利義輝暗殺に関して細川氏と手紙をやり取りした宇都宮家中の「沙弥(しゃみ)道楽」なる人物が登場する。細川氏が、宇都宮家臣代表と扱ったこの人物の道号は「心徹斎(しんてつさい)」。俊宗と一致する。すると、「那須文書」の書状で、同じ花押を持つ「心徹斎道楽」が俊宗と判明。その書状は、那須氏と南奥州の蘆名氏、白河結城氏の三者同盟に関心を示す内容。宇都宮家臣でありながら外部勢力との秘密交渉である。

 この三者同盟は元亀2(1571)年9月に成立。県立博物館学芸部長の江田郁夫さんは「翌年正月の宇都宮城占拠は、三者同盟に宇都宮氏を組み込み、上杉、北条に対抗しうる第三の道を模索した俊宗の策略だった可能性がある」と指摘する。だが、思惑は一年で破綻した。宇都宮氏と連携する常陸・佐竹氏が那須氏を攻めに攻め、屈服させた。三者同盟の一角が崩れ、佐竹氏に那須、小山氏らを含めた連合軍が皆川を攻め、支城が全て落城。佐竹氏は武田信玄に皆川攻めを連絡しており、信玄の同盟者・北条氏にもことわりを入れているはずである。だが、北条氏は皆川氏救済に動き出した。北関東侵略の名目としたのである。

 ◆皆川俊宗(みながわ・としむね) 1525~73年。父は皆川成勝(しげかつ)。家督を譲った嫡子・広勝は29歳で急死。次男・広照が跡を継いだ。

 参考文献は、「戦国大名宇都宮氏と家中」(江田郁夫、岩田書院)など。

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