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【坂東武士の系譜】第4部・激動の時代(32) 小山高朝 北条・上杉の2大勢力の狭間で苦心

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榎本城跡=栃木市大平町真弓
榎本城跡=栃木市大平町真弓

 戦国時代、関東は北条氏が勢力を増し、北へ北へと支配領域を拡大した。さらには、北条氏の動きに対抗して上杉謙信もたびたび侵攻。謙信につくか、北条につくか。各地の武将が去就をめぐり右往左往した。下野でその矢面に立ったのは小山氏だった。

 小山高朝は結城氏から養子に入り、小山政長の跡を継いだ。その前後、古河公方・足利高基(たかもと)らの書状に「小山小四郎」(実名不明)の名が見えるが、高朝の通称は「六郎」。別人である。小山市立博物館の佐久間弘行さんは「政長には娘がいたが、男子がなく、山川氏から養子を迎えたらしい。家臣団にはこれに反発する者もいた」と話す。古河公方・高基と晴氏の親子対立も絡んで山川氏系と結城氏系の養子が小山氏当主の座を争い、劣勢となった高基支持派の小四郎が排除されたようだ。

 結城氏はもとをたどれば小山氏の分家。山川氏は結城氏の分家だ。佐久間さんは「小山氏は先代、先々代(成長、政長)と求心力が足らず、家臣団が混乱した状態だった。高朝の代で盛り返し、戦国乱世に立ち向かった」と説明する。反抗的な家臣を武力で制圧し、一族の統率を強化。所領の回復も図った。実父・結城政朝の死後、兄・結城政勝と協力し、宇都宮氏の侵攻を撃退したこともある。

 だが、北条氏康・氏政親子の圧力はいよいよ強まり、永禄3(1560)年には謙信が関東に出兵。実家・結城氏と対応が割れることもあった。このころ、嫡子・秀綱に家督をゆずり、高朝は榎本城(栃木市大平町真弓)に移る。氏康と謙信のせめぎ合いが一進一退となる中、秀綱の対応は二転三転するが、これも家名存続のための苦労である。

 小山氏の本拠・祇園城は天正4(1576)年、氏政の弟・北条氏照に攻略され、小山の地は北条の支配下に落ちた。数年前に死去した高朝は、その悲劇を見ることはなかった。せめてもの救いか。

 ◆小山高朝(おやま・たかとも) 1508~73年。嫡子・秀綱は北条氏の配下となり、豊臣秀吉による北条氏討伐で地域領主としての地位を失った。

 参考文献は、「小山氏の盛衰」(松本一夫、戎光祥出版)など。

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