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設計図が伝える明治期の技術交流 大川の深川造船所から佐賀・呼子に

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佐賀県唐津市呼子町の市民団体が保管している深川造船所の船の図面。「不老丸側面及平面図」と記されている(呼子鯨組提供)
佐賀県唐津市呼子町の市民団体が保管している深川造船所の船の図面。「不老丸側面及平面図」と記されている(呼子鯨組提供)

 明治、大正期に福岡県大川市にあった深川造船所が作成した船の設計図が、55キロ離れた佐賀県唐津市呼子町に残されている。設計図は、船の近代化を牽引(けんいん)した同造船所で学んだ呼子の技術者が持ち帰ったとされ、当時の船体構造が分かる貴重な資料であり、技術交流を物語る。呼子の市民団体は「技術者の足跡を伝えたい」と情報発信に取り組んでいる。(高瀬真由子)

 呼子に残されている設計図は9枚あり、船体の断面など船の構造が記されている。江戸時代以降、呼子で捕鯨船の建造や修繕を担った山口家の4代目、山口成吉(1885~1973)が持ち帰ったとみられる。

 大川市を流れる筑後川流域の歴史に詳しい佐賀市のNPO法人「みなくるSAGA」の本間雄治理事は「深川造船所の設計図がこれだけ距離が離れた場所に残るのは珍しい。近代造船史の一端がみえる」と語る。

 呼子では江戸時代から「鯨組」と呼ばれる組織をつくり、船団で捕鯨が営まれていた。設計図を保管する市民団体「呼子鯨組」や下関鯨類研究室によると、当時は鯨を追う勢子船(せこぶね)や、捕獲後の運搬を担う持双船(もっそうぶね)など役割ごとに分かれ、船団は数十隻に上った。同研究室の石川創室長は「鯨組は地場産業として大きな利益を上げており、藩も事業者を保護し、育てていた」と語る。

 呼子で鯨組を率いた中尾家は、当時造船技術の先進地だった明石(兵庫県)から造船技術者の山口家を招き、鯨船の新造や修繕を任せた。

 ただ江戸末期になると、米国などの大型捕鯨船が日本近海で活動し、日本の古式捕鯨は打撃を受けた。鯨組は、徐々に衰退した。

 1904(明治37)年の日露戦争で、古式捕鯨に用いる網が軍に徴用されると、呼子では捕鯨砲の使用が始まった。また、戦争で拿捕(だほ)されたノルウェー式のロシア船が日本の捕鯨業者に払い下げられ、捕鯨の近代化も加速した。

 船団捕鯨の衰退や船の近代化を受け、山口家も対応を迫られた。

 明治38年、成吉(当時21歳)は、ボイラーやエンジンを備えた最先端の造船技術を学ぼうと、深川造船所(当時の社名は大川運輸)に研修に入った。同造船所は、動力を備えた洋型船を建造する九州有数の造船基地だった。

 成吉は3年にわたり製図や建造技術を学んだ。船の設計図を手に、呼子に戻った後は「山口船工所」を興し、エンジンを持つ漁船や貨物船を造った。

 捕鯨に関する地元の歴史を研究している呼子鯨組は、昨年に明治維新から150年を迎えたのを機に、関係資料の展示会や講演会を開き、郷土の歴史を伝える。

 八幡崇経代表(61)は「名前が残る偉人だけでなく、近代技術を取り入れようと奮闘した人が身近にいることを知ってほしい」と話している。

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