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【歴史シアター】天下取りへ信長の強い決意 岐阜城跡から天守台石垣

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斎藤道三、織田信長の居城だった岐阜城。通路下の石垣は織田時代の名残だ=岐阜市
斎藤道三、織田信長の居城だった岐阜城。通路下の石垣は織田時代の名残だ=岐阜市
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 戦国武将、斎藤道三(~1556年)によって築城され、織田信長(1534~82年)が改修・整備した岐阜城(岐阜市)。その城跡から初めて、信長時代の大型建物の土台を支えたとみられる石垣が見つかったことで、岐阜城は天守(多層の大櫓(おおやぐら))を備えた画期的な城だったことが裏付けられた。天守のある城を信長が造ったのは、安土城(1579年築城)が最初とされていたが、それを10年以上早める。岐阜城は信長が「天下布武」の朱印を使い始め、国内統一への足掛かりにした城。築城にもその強い意欲が表れていたようだ。(編集委員・上坂徹)

■にぎわう城下町

 「人口は8千ないし1万人。出入りはバビロンの混雑に等しく、各国の商人が集まり、その雑踏で何も聞こえないほど。…(信長の居館は)ポルトガルおよびインドから日本に来るまでに見た宮殿・家屋の中で、このように精巧・美麗・清浄なものがないのは疑いない」

 永禄12(1569)年、岐阜を訪れたイエズス会のポルトガル宣教師、ルイス・フロイスは書簡の中で、信長が治める当時の岐阜城や岐阜の町の様子をこう描いている。

 岐阜城が築かれたのは岐阜市の中央部に位置する金華山(きんかざん)(旧名・稲葉山、標高329メートル)の山上。天文8(1539)年ごろに、斎藤利政(道三)がこの場所に稲葉山城を築城。城下に井口(いのくち)と呼ばれた町を建設した。道三はここを居城として、美濃(岐阜県)を支配した。天文23(1554)年、隠居して家督を長男の義龍(よしたつ)に譲ったが、病死。家督を継いだ龍興(たつおき)が城主だった永禄10(1567)年、織田信長に攻められて、龍興は稲葉山城から逃亡。信長が入城した。

 信長はそれまでの小牧山城(愛知県小牧市)から、稲葉山城に拠点を移し、城を大幅に改修。麓に居館を設けるなどした。城下の井口は「岐阜」と改名。この地で、特権的な座や独占販売を禁止し、課税を免除する「楽市楽座」を実施し、町に繁栄をもたらした。また、信長は、岐阜入城のころから、「天下布武」の朱印を使い始めたことも知られている。「天下に武を布(し)く」と読め、軍事力で天下統一を果たす意思表示、とみる向きもある。

 岐阜城は、「本能寺の変」(1582年)の後も存続していたが、関ケ原の戦い(1600年)に際して、城主だった信長の孫、秀信が西軍に加わっていたため、徳川家康軍に攻められて落城。翌年に廃城となった。城の部材は、家康によって近くに建てられた加納城の築城に使われたといわれる。享保13(1728)年に描かれた「加納城絵図」には、二ノ丸東北隅に3層4階の櫓があり、岐阜城の天守を移築したと伝えられていたが、岐阜城跡からは天守の痕跡は見つかっていなかった。

■天守もつ最初の城 

岐阜城跡で発見された、織田信長時代の石垣。天守の土台だったようだ
岐阜城跡で発見された、織田信長時代の石垣。天守の土台だったようだ
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 今回、信長時代の石垣が見つかったのは、城跡に昭和31年、加納城の3層4階の櫓をモデルに建設された復興城のすぐ西側。3段分の石垣(高さ70センチ、長さ1・8メートル)を検出した。これまで確認されている石に傾斜をつけて組み、隙間に間詰石(まづめいし)を詰めるという信長の石垣造りの技術と一致した。また、江戸時代に描かれた「稲葉城址之図」で「天守臺(台)」と記された場所にあたることから、調査した岐阜市教委は「石垣は信長の築城時に、天守の土台となったもの」と判断した。

 調査を担当した同市教委の高橋方紀・歴史遺産活用推進係長は「岐阜城跡には、明治時代に最初の、戦後に2度目の復興城が建設されている。そのさい、石が積みなおされているので、信長時代のものは検出できないと思っていました。今回の発見で、岐阜城が信長によって築かれた天守をもつ最初の城だったことが分かった。城郭建築を考えていくうえで、重要な意味を持っている」と話している。

■油商人から美濃国主に

【プロフィル】斉藤道三(さいとう・どうさん) 生年や出生地、出自ははっきりしないが、油の商いを始めて、行商でしばしば訪れた美濃国(岐阜県)で、守護の土岐氏の家臣に仕官した、という。守護代の斎藤利良が没すると、家督を継いで、斎藤氏を名乗った。天文8(1539)年、稲葉山に築城(稲葉山城=岐阜城)して、ここを拠点に美濃支配を目指し、同11(1542)年、守護の土岐氏を尾張に追いやり、事実上の美濃国主となった。同18(1549)年に剃髪(ていはつ)して道三と称した。弘治2(1556)年、長子の義龍と争い、長良川の河畔で戦死した。娘の濃姫は織田信長に嫁している。

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