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【希少がんと共に生きる】「余命」をリアルに考える 今読み返す闘病日記

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担当の本間義崇医師(右)からCT検査の結果について説明を受ける坂井広志記者=1月7日、東京・築地の国立がん研究センター中央病院
担当の本間義崇医師(右)からCT検査の結果について説明を受ける坂井広志記者=1月7日、東京・築地の国立がん研究センター中央病院

 予後が悪いとされる希少がんの一つ、小腸がん(ステージ4)の手術をしたのは、平成28年12月19日。あれから3年が過ぎ、4年目を迎えている。悪性腫瘍だったという現実を突き付けられたのは、忘れもしない同月28日。「死んでしまう」という絶望の淵に立たされたことが、昨日のことのように思い出される。改めて、これまでの3年間を振り返ってみたい。

 がん告知の日、がくぜんとし、うなだれていた筆者の目の前に、手術を受けた水戸医療センター(茨城県茨城町)の執刀医から2つの症例が書かれたA4サイズのペーパー2枚が差し出された。

 頭は真っ白になり、目で何度も字面を追ったが、全く日本語を理解できなかった。実に不思議な体験だった。ただ、執刀医の説明から、1つは4年生きた小腸がん患者の症例、もう1つは5年生きた症例だったことは鮮明に覚えている。

 その患者が現在生きているのかは知らない。しかし「4、5年生きているケースがあるので希望を失わないでほしい」という気持ちを込めた激励だったことは、話しぶりからして分かった。その後、もっと生き延びた例はなかったのかを聞いたが、「相当調べたが見当たらなかった」という悲しい返事だった。

 この経験から、長生きして、現在5歳の娘の成長を楽しみたいという強い願望を抱きながらも、「生きていられるのは発症から最長で5年かもしれない」とも思いながら過ごしてきた。最近、いつまで生きられるのかという不安、恐怖に襲われることが少なくない。それは、目の前に出された症例の一つである「4年」に差し掛かったからにほかならない。「余命」というものをリアルに考えるときを迎えたといってもよい。

 それにしても、よく3年間、元気でいられていると思う。今ではすっかりさぼり気味になっている闘病日記だが、出術当日には「ついに来た手術の日。こんな緊張する朝を迎えたのは初めてかも。夢に娘が出てきてくれた。うれしかった。パパ頑張る」と書いていた。

 この時点では腫瘍が陽性か陰性かは不明で、腫瘍を切除し、腸閉塞(へいそく)を治すのが手術の一義的な目的だった。まだ、気持ちに日記を書く余裕があったのだろう。告知日のページには、執刀医から受けた説明を記しているだけで、自分の気持ちは一切書いていない。なぜ書かなかったのかは覚えていないが、書く気分になれなかったのは想像に難くない。

 手術後の抗がん剤治療は、希少がんということもあり、少しでも症例が多い国立がん研究センター中央病院(東京・築地)で始めた。

 同病院での初診は平成29年1月5日。日記には「娘がパパを助けてくれると信じている」と書いてある。がん細胞が小腸を破って腹膜に無数に散ってしまったため、手術ですべてのがん細胞を取り切ることはできなかった。このため、わらをもすがる思いで抗がん剤治療に賭けた。

 その抗がん剤、中でも点滴で投与し続けたプラチナ製剤「オキサリプラチン」の副作用は想像を絶する辛さだった。同年2月には「外は寒風が吹きすさび、両手がしびれ、目が開けられないくらい、まぶたがしびれ、かなりきつかった」、「点滴から1日たっても朝から吐き気。水道で手を洗ったり、冷たい空気に触れたりするとかなりしびれた」などとつづっている。

 足もしびれ、痛みで歩けない日も多かった。喉は石が詰まっているような感覚になり、食事が思うように通らないのは日常茶飯事。手の指の関節部分の皮膚がすべて切れ、痛みでパソコンを打つのは困難を極めた。同年春ごろにはこう筆を走らせている。

 「ものの本には『クオリティー・オブ・ライフを優先すべきだ』『無理して抗がん剤を投与すべきではない』といった趣旨のことが書かれていたが、何としても治したい僕としては、この考えには与さない。我慢してでもオキサリプラチンは続けたい」「副作用と戦うのはしんどいが、生き抜くためにはやむを得ない。これも運命なのだろう」「オレは絶対死なない」

 3年間生きながらえたのは、副作用の苦しみにひたすら耐えたからだろう。では、耐えるには何が必要か。それは「闘志」以外にない。がんに打ち勝つために、闘志を燃やし続け、新たな症例となって、世界中のがん患者に希望を与えたい。

(政治部 坂井広志)

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