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精神の豊かさ示す深い記憶 プルースト「失われた時を求めて」新訳完結

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新訳が完結した岩波文庫版『失われた時を求めて』(全14巻)
新訳が完結した岩波文庫版『失われた時を求めて』(全14巻)

 刊行開始から約10年、訳文は400字詰め原稿用紙で1万枚近く-。フランスの作家、マルセル・プルースト(1871~1922年)による大長編『失われた時を求めて』の新訳(全14巻、岩波文庫)を、吉川一義・京都大名誉教授(72)が完結させた。パリを中心に新しい文化が栄えたベル・エポック(良き時代)の上流社会を背景に紡がれた20世紀文学の金字塔。この古典中の古典が持つ現代性について吉川さんに聞いた。  (文化部 海老沢類)

深い人間認識

 個人全訳は井上究一郎(ちくま文庫)、鈴木道彦(集英社文庫)の両氏に続き3人目。「特定のテーマを設定する研究とは違い、白紙の状態でプルーストと向き合えた。いろんな発見がありましたね」と吉川さんは振り返る。

 物語は19世紀末から20世紀初頭の仏上流社会を舞台にした全7編で構成され、プルーストの精神的自伝ともいわれる。田舎町で過ごした幸福な幼少期の情景、いくつもの恋愛、豪勢なパリの社交界での交友、そして作家という天職の発見…。語り手である「私」の人生遍歴や社会の変遷が、失われゆく「私」の記憶を通してつづられていく。仏語原文は約3千ページに上る。

 吉川さんが初めて全編を通読したのは東大生だった19歳のとき。学生運動の激しかった当時、上流社交界を描いたプルーストの評価は不当に低かったという。ところが、「季節の移り変わりなどを繊細に写す詩的な自然描写や複雑な作品構造が次第に再評価されていく。人間の豊かな精神世界が描かれていて、今も評価は高まる一方です」

 時と記憶を主題にした物語は、ブルジョア階級と貴族階級の運命の変転や老いの気配といった「時」の残酷さを精細に描く。一方で「ドレフュス事件」(ユダヤ系軍人がスパイ容疑で逮捕され、その後冤罪(えんざい)となった)が明るみに出したユダヤ問題や同性愛も見つめ、時を経ても変わらない人間の心理をすくい上げる。「社交界という人々が集い、発言する場を通して、プルーストは偽善やエゴイズム、他者を差別して排斥する論理をあぶり出す。その背後には、いつの時代も“社会”ができれば人間はそう振る舞うのだ、という深い認識がある。特殊な社会を描いているようで、現代の日本や世界の状況に当てはまることも多い」

語順にも意味

 読んですっと頭に入る新訳を目指したという吉川さん。理解を助ける図版や訳注を豊富に付ける一方、ときに数ページにも及ぶプルースト特有の息の長い文章はなるべく長文のまま、語順も尊重して訳した。「例えば文章の語順には、登場人物が物事を認識する順序がきっちり反映されていると今回気づいた」からだ。

 この古典が後進に与えた影響は大きい。映画やテレビにはない小説の強みとは? ノーベル文学賞を受けた日系英国人作家のカズオ・イシグロ氏はそう思案していたとき、時系列に関係なく記憶を漂流させる『失われた時を求めて』の叙述に魅了され、啓示を得ている。<この方法なら本の各ページを豊かにし、スクリーンでは捉えようのない内的な動きを読者に示せるのではないか>(『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』土屋政雄訳)-と。

 ふと口にしたマドレーヌの風味が、幸福な思い出を呼びさます-。確かに、そんな有名な追憶場面を読んでいると、現在の問題ばかり気にかけて閉塞(へいそく)しがちな自分の生が、ぐっと押し広げられるような解放感に包まれる。吉川さんは言う。

 「いろんな情報が次々押し寄せるインターネット社会の今、交わされる言葉も手軽な合図のようなものになってしまっている。そうではなく、人間の内面深くに沈んで過去へ思いをはせる-。プルーストの言葉は、現代人が失いつつある人間精神の豊かさに目を向けさせてくれるのです」

 Marcel Proust 1871年、現在のパリ市内に生まれる。父は医学博士で、母は富裕なユダヤ系の家系。社交界に出入りするかたわら文学に励む。30代から、外の物音を遮断するため壁をコルク張りにした部屋で『失われた時を求めて』の執筆に没頭。1913年に第1編「スワン家のほうへ」を自費出版し、19年に第2編「花咲く乙女たちのかげに」でゴンクール賞。22年に気管支炎が悪化し51歳で死去。5編目以降は死後、27年にかけて、遺稿をもとに出版された。ほかの作品に『楽しみと日々』など。

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