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【志らくに読ませたい らく兵の浮世日記】群衆のはやし立ては怖く…

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らく兵
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 映画を見に行った。『リチャード・ジュエル』。実在した人物の名前がそのままタイトルになった映画で、クリント・イーストウッドの監督作品だ。

 1996年、アメリカのアトランタ・オリンピック。その会場近くの記念公園で起きたテロ事件が背景になっている。この事件を防ごうとした警備員が主人公で、被害を最小限におさえて世間にたたえられるが、やがてそのテロ事件の犯人として疑われていく。

 クリント・イーストウッドは、このところ実話をもとにした作品を撮ることが多い。今回もそうで、一つの冤罪(えんざい)事件をめぐって、親子の情愛や、主人公を助ける人々の温かい心情が描かれている。またそれだけに、冤罪に巻き込まれてしまうことの怖さも際立っていた。無実の人が疑われるというのは日本でもよく聞く話。いろいろと身につまされる。

 映画を観たあと思い出したのは、古典落語の「たがや」。

 たがやとは、木製の桶を締める「たが」という部分をこしらえたり、直したりする職人。花火の夜に両国橋を渡ろうとした、たがや。橋の上は大変な人ごみ。向こうから渡ってきた馬上の殿様と喧嘩(けんか)になって、しまいには刀で殿様の首をはねる。聴衆がスポーンと飛ぶ首を眺めながら、花火の掛け声「たまや」になぞらえて「たーがやー」。

 この落語はもともと、たがやの首が飛ぶ話だったらしい。それがいつしか、たがやが殿様をやっつける物語になった。むかしから落語を聴くのは一般庶民で、お侍ではない。お客はたがやに感情移入する。それに配慮した結果、内容も変わっていったのだろう。

 大師匠の談志は「本来通り、たがやの首を飛ばすべきだ」と言った。そのテーマは「群衆の無責任」。つまり、職人を囃(はや)し立てて調子に乗らせ、侍に殺されるまで追い詰めたのは、周りにいた見物人。この人間のいい加減さを描く落語だ、というのだ。

 古来人間には、他人の不幸を娯楽にしてしまう一面がある。当事者がその後、いかにつらい人生を送るかは考えない。「人の不幸は蜜の味」というやつだ。魔女狩りなんてのはそんな行為の代名詞。日本でもなにか事件があると、誰かを勝手に犯人扱いして、まつり上げるというのはよくあるところ。近年はSNSの発達で、誰しもが全世界に向けて思いを発信できるとなれば、その危険はなおさら増していく。

 収監された人が何十年たってから、やっと無罪を証明され、刑務所から出てきたなんていうのは、この日本でも実際に起きている。いまの時代は、そういった人生の悲劇を生んでしまう可能性が、むかしとはまた違った確度で高まっているのかもしれない。

 オリンピック・イヤーの今年、開催国の日本はテロ事件そのものにも警戒を強めている。その意味でも、名監督クリント・イーストウッドからの、たくさんの警告を含んだ映画だった。

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