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【一聞百見】正岡子規と加藤拓川、2人の祖父を語り継ぐ 樹木医・正岡明さん(74)

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「子規は究極のプラス志向で生き抜いた」と話す孫の正岡明さん =奈良市白毫寺町の自宅(南雲都撮影)
「子規は究極のプラス志向で生き抜いた」と話す孫の正岡明さん =奈良市白毫寺町の自宅(南雲都撮影)
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 俳句・短歌の革新と写生文の提唱などに打ち込んだ正岡子規の義理の孫が奈良にいる。樹木医で庭園設計業を営む正岡明さん(74)。子規の遺品を守りながら、その業績を後世に伝える活動を続ける。実の祖父で子規の叔父でもある明治の外交官、加藤拓川(たくせん)についての執筆や講演も増え、2人の祖父の語り部としての役割に情熱を傾ける。(聞き手 編集委員・松岡達郎)

■父が守った子規の遺品

 〈正岡さんの父、忠三郎は加藤拓川の三男。独身を通して子をなさぬまま早世した子規の死後、正岡家の養子(戸籍上は子規の妹、律の養子)となった。このため正岡さんは子規の義理の孫、そして拓川の実の孫にあたる〉

 「実は、父から子規の話を聞いたことがないんです。父は子規の晩年の日記『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』の行方が分からなくなる騒ぎなどで大変苦労したらしく、兄(浩さん)と私にそんな思いをさせたくなかったのでしょう」。正岡さんはこう打ち明ける。忠三郎は、俳句や短歌などで子規を継ぐことはなかった。正岡家の養子になる条件として、文学を生業(なりわい)にしないよう律と約束したからだという。「律は子規を尊敬していたが、困窮ぶりを身近に見て厳しい世界だとみていたのだと思います」

 ただ忠三郎の周りには不思議と才能のある友人が集まった。中学の同級生には評論家の小林秀雄がおり、高校や大学時代は富永太郎や中原中也らと親交を深めた。詩を評価する能力があったらしく、中也の詩を『これはダメだ』と突き返したこともあった。阪急電鉄に就職したが、世界的な指揮者になった朝比奈隆と電車の車掌と運転士のコンビを組んだことがあった。「真相は確かめるべくもありませんが、父からさまざまなエピソードを聞いたことがあります」と正岡さん。

正岡子規(正岡明さん提供)
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 〈中原中也に頼まれて早稲田を替え玉受験させられそうになったよ〉

 〈朝比奈隆は運転の最中にビオラを練習して、おかげで駅を停車せずに通過したこともあったんだ〉

 文学の道を歩まなかった忠三郎は子規の遺品を大切に保管した。正岡さんにとって父の思い出は深夜に泥酔して帰宅し、玄関先で寝てしまう姿ばかり。それでも休日には黙々と子規の書簡や書籍を分類・整理し、虫干ししたりしていた。忠三郎は子規の遺品を何度となく危機から救った。戦時中に兵庫県伊丹市の自宅が空襲に遭った際には「(遺品を)焼いたらダメだ」と奮闘。昭和40年代にも火事騒動があったが、病床の忠三郎が子規の遺品の入ったトランクを運び出すことを真っ先に指示した。

 正岡さんは自身が子規を意識したきっかけを話す。「平成13(2001)年に子規が住んだ東京・根岸の子規庵の土蔵で『仰臥漫録』が見つかったんです。それも子規の没後100年の前年。それを機にどんどん子規の世界に引き込まれました。とにかく子規は熱量がすごく、好奇心が旺盛で、病気を逆手に取って、究極のプラス思考で生き抜いた。その明るさが魅力です。その足跡を特に若い人に伝えたい」

正岡子規の関係系図
正岡子規の関係系図
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■子規に導かれた造園の道

 正岡さんは、ピアニストや大手機械メーカー勤務を経て、樹木医と造園設計業の道に進んだ。一見、回り道をしたようだが、不思議なことに庭を通じて子規とつながった。「導かれていたよう」と語る。「子供の頃からピアノを習っていました。母はピアニストになりたくて、私に夢を託したようです」。しかし大学卒業後は大手機械メーカーに就職した。「大学卒業間際に父が脳出血で倒れたこともあり、親を安心させるための就職でした」

 暗黒時代が始まった。会社では精密機械の設計が仕事だったが、どうしても興味が持てなかった。結局、3年で退職。その後、大阪の造園会社の門をたたいた。「失業中に何をしようか喫茶店で考えていたら、仕事だった機械の『設計』と好きだった『植物』が結びついた。子供の頃から庭で草花を植えたり、野原で花を摘んで遊んだりしたのですが、好きな庭を設計することを思いついたんです」。7年間修業して昭和57年に独立、樹木医の資格も取得した。

 〈正岡さんは結婚を機に約30年前、兵庫県伊丹市から妻の実家のある奈良に拠点を移した。奈良は明治28年の子規の生涯最後の旅で訪れた地で、『柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺』などの多くの有名な句を詠んだことで知られる〉

 そして奈良で縁がつながった。子規が逗留(とうりゅう)した旅館「対山楼(たいざんろう)」跡で子規も見たであろう樹齢120年以上とみられる柿の古木が見つかり、同地にある日本料理店「天平倶楽部」が子規にちなんだ庭を造ることになったのだ。「子規の子孫にあいさつすることになったようで。そのとき庭造りをしていると告げると、庭園の設計をさせてもらうことになりました」

自ら設計した「子規の庭」を歩く正岡明さん =奈良市今小路町(南雲都撮影)
自ら設計した「子規の庭」を歩く正岡明さん =奈良市今小路町(南雲都撮影)
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 〈子規は随筆で『書斎及び庭園設計』と題して理想の書斎と庭園の計画案を書き残しており「秋の野草を植え、皆野生の有様にて咲き乱れたるを最上とする」などとしていた〉

 随筆の文と挿絵を参考にした庭造りに取り組んだ。東大寺を借景にしススキやハギ、フジバカマなど子規の好んだ草花を植え込み、野趣と自然を生かした「子規の庭」が平成18年秋に完成した。正岡さんはこう話す。「文学をやっているわけでもなく、回り道ばかりしてきたと思っていたら、導かれるように子規とつながった。人生には無駄なことはないとつくづく感じます」

加藤拓川宛の書簡や絵はがき(正岡明さん提供)
加藤拓川宛の書簡や絵はがき(正岡明さん提供)
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■司馬さんに励まされ

 正岡さんは、奈良市を拠点に樹木医や庭園設計業を営む一方、正岡子規研究所を主宰し明治の人物群をテーマに講演や執筆を続ける。最近は、実の祖父である明治期の外交官、加藤拓川への興味を深めたといい、来秋の刊行を目指して著書の執筆を進めている。

 「まだ若くて未熟だったので、あまり意識していなかった。明治の人物群に興味を深めている今、お話しできていたらと悔やまれます」。正岡さんがこう話すのは、作家の司馬遼太郎をはじめとする父、忠三郎の友人らとの親交のことだ。

 〈司馬は小説『坂の上の雲』を書き始めたころ、主人公の秋山好古(よしふる)、真之(さねゆき)兄弟と子規らの子孫を招いて食事会を開いた。このときに忠三郎と初めて会い、人物に魅せられて家族ぐるみのつきあいが始まった。忠三郎をはじめ子規以降のことなどを小説『ひとびとの跫音(あしおと)』で描いた〉

 『子規全集』を出版する際には、司馬や大岡昇平ら作家が編集委員に入り、兵庫県伊丹市の実家で編集会議を開いた。正岡さんも同席して出席者の写真を撮ったり、言葉を交わす機会にも恵まれたという。「印象に残っているのは私が庭作りの道に進んだときに司馬さんから長い電話がかかってきて『一介の植木職人で終わっても、一流の造園家になっても土くさく土にまみれるのはすばらしい』と励ましてくださったことです」

 こうした著名人との親交が正岡さんの歴史への興味を深めさせたが、拓川に特に注目するきっかけをこう振り返る。「27年前ですが、実家で風呂敷袋に包まれた箱が見つかったんです。500~600通の拓川宛て書簡がびっしり。差出人は西園寺公望や原敬、犬養毅と首相だけで6人で、政治家や軍人ら著名人ばかり。どんな人かと引き込まれました」

 〈加藤拓川はフランス留学を経て外務省入りした。明治40年に、第2回万国赤十字条約の調印に日本側の全権大使の立場で臨んだが、伊藤博文の方針に反したことから退職。衆議院議員や大阪新報の社長などを歴任した。子規の母、八重は姉にあたる〉

 「司馬さんは『拓川の生涯は友人をつくるためにあった』と言われました。確かに拓川宛ての書簡を読んでいくと、自分は表に出ることなく交友した多くの友人を結びつけ、歴史の舞台回しのような存在だったのかもしれないと思うようになりました」と正岡さん。

 拓川が外交官として活躍した時代の日本は貧しく、列強ひしめく世界で、何もしなければ植民地にされる危機にあるなか、徒手空拳で志だけで列強と対峙(たいじ)したのだ。拓川についての著書を執筆中の正岡さんは、こう強調する。「祖父を通じ、純粋な気持ちで『坂の上の雲』に上った明治の人々の矜持(きょうじ)を知ってもらうことは、危機にありながら安穏としている今の日本人に警鐘を鳴らすことになると思います」

     ◇

【プロフィル】正岡明(まさおか・あきら) 昭和20年、兵庫県伊丹市生まれ。大手機械メーカーや大阪の造園会社を経て57年に庭園設計業として独立した。一方、平成12年に正岡子規研究所を設立し、子規や加藤拓川を中心に明治の人物群に焦点をあてた講演や執筆を手掛ける。奈良市在住。

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