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【一聞百見】ブルースハーモニカ日本一…全盲で車いす、奇跡のミュージシャン 山下純一さん(44)

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ワークショップで豪快な演奏を披露する山下純一さん。右手の甲にハーモニカを乗せ左手と口で音を包む独特の奏法だ =京都市中京区のライブハウス「モダンタイムス」(永田直也撮影)
ワークショップで豪快な演奏を披露する山下純一さん。右手の甲にハーモニカを乗せ左手と口で音を包む独特の奏法だ =京都市中京区のライブハウス「モダンタイムス」(永田直也撮影)
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 原因不明の難病で自力で歩けなくなったのは小学生の時だ。大学休学中に完全に視力を失い、手首や指は脱臼して今も曲がったまま。そんな幾重の試練をも力に変え、ハーモニカコンテストのブルース部門に健常者と同じ条件で出場し、日本一になった“奇跡”のミュージシャンが京都にいる。「この体はいつか壊れていく?だからこそ今を生きるだけ」「まだまだやれる」-。豪快な演奏と、ほどよく枯れた力強い歌声が聴く者を勇気づける。(聞き手 京都総局長・山口敦)

■ベッドの上でエイトビート 音楽で世界とつながる

 「あきらめへんかったら道はあるんやなって。今でもびっくりしています」。40代になって初めて出場したブルースハーモニカコンテストで日本一を獲得したが、その裏には凡人の想像を超える試行錯誤があった。

 ハーモニカを安定して支えるため、脱臼し内側に曲がっている手首を、さらに湾曲させる方向に自分で変形させてみた。病気を治すための一般的なリハビリとは逆方向だが、演奏にはよかった。これで右手の甲に乗せたハーモニカを、左手と口で包み込めるようになり、初めて納得できるブルースのサウンドを出せるようになったという。それが、日本最大のハーモニカコンテストに出場するきっかけになった。「おっさんになってきたらクオリティーを上げていくしかない。そこは障害者とかじゃなくて、純粋にいい音楽、いい音、いいテクニック。今、必死こいてプレーに磨きをかけてます」。そのひょうひょうとした明るい声はよく通る。

 発病がわかったのは2歳の時だった。よくぐずる、ちょっとからだを持ったら痛がる、まず親が異常に気づいた。医療機関では若年性の関節リューマチと診断されたが原因はわからず、有効な治療法も見つからなかった。視力が弱いことには、小学1年の時に自分で気がついた。「親戚(しんせき)の子と父親の車の後部座席に乗っていた時に、後続車を運転していたお坊さんが手を振ったらしいんです。『あっ坊主や』と親戚の子は言ったんですけど、僕には見えなかった」

原因不明の難病のため歩くことが難しくなり、治療が続いた小学生時代の山下純一さん(本人提供)
原因不明の難病のため歩くことが難しくなり、治療が続いた小学生時代の山下純一さん(本人提供)
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 小学3年の時には一時歩けるまで回復し、地元の公立小に通った時期もあった。しかし痛みがひどくなり、4年になると再び歩行困難に。程なく週1回しか家に帰れない入院生活に戻り、そこから車いすで養護学校に通う日々が続いた。音楽を意識し始めたのは、その入院先のベッドの上だった。ラジカセに合わせ孫の手でベッドをたたいていると、女性看護師だったかが「それエイトビートやね」と声をかけてくれた。中学3年の時だった。

パーソナリティーを務めるラジオ大阪の番組「山下純一のバリアフリーFUNK!」(毎週日曜午前4時から放送)の収録に臨む =大阪市港区(南雲都撮影)
パーソナリティーを務めるラジオ大阪の番組「山下純一のバリアフリーFUNK!」(毎週日曜午前4時から放送)の収録に臨む =大阪市港区(南雲都撮影)
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■猛勉強の末…大学でみた「地獄」

 盲学校の高等部に入るとドラムセットがあった。それを恐る恐る触ってみたのが、軽音楽にはまるきっかけになった。「リンドバーグが好きでした。そっから村上ポンタ秀一さんや東原力哉さんとかを聴きまくりました」。自分の体の条件に合わせて教えてくれる先生はなかなかいない。基本は独習だった。「CDで繰り返し聴いて後は教則ビデオ。画面は見えないけれど音と言葉をひたすら聴きました。それが村上ポンタさんのビデオでした」

 もう一つ、高校時代に出会って人生を変えたものがある。点字だ。視力の悪化で中学ではほとんど勉強できなかったが、「この子はやればできる」。中学時代の恩師、病院の看護部長らさまざまな人の後押しで半ば強制的に大学を目指すことになった。ほぼ見えない以上、勉強には点字が欠かせない。なにより、一度失った読み書きの手段を、再び手に入れた喜びは想像以上だった。「点字はなんて便利なもんなんだろうと、感謝したのを今でも覚えてます。だから、覚えるのはめちゃくちゃ早かった。もっとどんどん教えてくれ、そう思っていました」

 病気のため、目や足だけでなく、その手も自由とはいえないが、最初はできなくても何回も何回も繰り返し、自分なりの方法を体に染みこませる。ドラムと同じだった。「ドラムも点字もどっちも楽しかった」。基礎から勉強をやり直し、2浪して京都の私立大学に合格した。「点字のいい所は病院で消灯しても勉強を続けられること。真っ暗のなかでも全然できる。あれは強みでした」。夢はドラマー、大学では軽音楽部に入部した。健常者のなかでどれくらい通用するのか、腕試しをしたい気持ちもあった。

 しかし、ようやく手にした大学生活では、のっけからつまずいた。

高校時代に出会ったドラムが山下純一さんの人生を変えた(本人提供)
高校時代に出会ったドラムが山下純一さんの人生を変えた(本人提供)
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 当時、視覚障害者の学生は自分一人。履修手続きから難関だった。大学の担当者は電話帳のような分厚い資料をどんと置くだけ。「僕読めないんです」というと「友達にやってもらってください。友達いないんですか?」と聞かれた。「今思えば、入学直後に友達がいなくて当然だったんですが、いないっていうのもいやじゃないですか」。仕方なくボランティアクラブに頼みにいくと「うちは学内はやってないんで」と断られた。「山下君だいじょうぶか」。そう言って教室の移動を手伝ってくれたのは、ガードマンだけだった。

 入部のさいのドラムの腕見せで、並み居る先輩たちをうならせて入った軽音楽部でも「地獄」をみた。ライブでもあると、1年生にはさまざまな用事が割り振られる。だが自分はただ朝早く行って待つだけ。トイレに行きたくなると、懐中電灯をピカピカつけて合図をする、それも情けなかった。みんなが怒られても自分だけ飛ばされた。「おれも怒ってくれ。怒ってくれないと輪に入られへん」

ハーモニカのワークショップで奏法をアドバイスしながら笑顔を見せる山下純一さん(左) =京都市中京区のライブハウス「モダンタイムス」(永田直也撮影)
ハーモニカのワークショップで奏法をアドバイスしながら笑顔を見せる山下純一さん(左) =京都市中京区のライブハウス「モダンタイムス」(永田直也撮影)
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 体に変調が現れた。右肩が上がらなくなりドラムも満足にたたけなくなった。1年の後半には原因不明の熱が出るようになり、とうとう休学に追い込まれた。完全に失明したのはその2年間の休学中のことだ。そのとき始めたのが、ハーモニカだった。締め切った自室にこもり、布団にもぐってひたすら吹いた。「一番しんどいときに、音楽は捨てられなかったんです」

■音楽だけはフリーダム

 「がっかり感はありましたよ。これから先見えへんのかあと。でもちょっとでも見えたら見ようとするし、どれくらい見えるのか説明もしなければならない。見えなくなった方がある意味、すっきりしました」。盲学校を卒業し2浪して入った大学は、体調不良のため1年足らずで休学を余儀なくされた。視力を完全に失ったのは、その休学中だった。

 2年の休学を経て復学してみると、もう1人視覚障害者が入学し独りではなくなっていた。携帯電話の普及で、誰かを呼ぶ際にいちいち公衆電話まで車いすで行く必要がなくなったことも大きかった。復帰した軽音楽部では1年ではなく4年生として扱われ、上下関係もずいぶん楽になった。そして転機が訪れた。

 大学帰り、通学に使っていたタクシーを待ちながらハーモニカを吹いていると、それを聞いた近所の喫茶店の店主が知り合いのブルース奏者につないでくれた。わざわざ大学に訪ねてきたギタリストは、音合わせを済ませると「わかったオッケー。今度一緒にやろう」と言った。ゲストとして招かれ、ハーモニカ奏者としてデビューしたのは、京都のミュージシャンなら誰もが憧れる老舗ライブハウス「拾得(じっとく)」。そこからさまざまなプロのミュージシャンたちと出会うことになる。

山下純一さん。歩けなくても、足に楽器をつけ軽快なリズムを刻む
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 「しんどい時期に何かしらのエネルギーがたまって、ある程度を超えるといいことも起こり始めるんです」。大学在学中から約10年活動したバンド「珍獣王国」でも障害者は1人だった。「音楽ってすごいといつも思っています。音さえ出せれば、みんな同じ土俵でやれる」。ひょんなきっかけであのスティーヴィー・ワンダーとコンサートホールの楽屋でセッションしたのもこのバンド時代だ。平成21年には、国内の障害者ミュージシャンを対象にしたゴールドコンサートでグランプリを取り、25年には過去の同コンサートの受賞者によるグランドチャンピオンシップでチャンピオンに輝いた。

山下純一さん。車椅子に装着したパーカッションでも演奏する(本人提供)
山下純一さん。車椅子に装着したパーカッションでも演奏する(本人提供)
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 そして30年、国内最大のハーモニカ大会「FIHハーモニカコンテスト」のブルースハープ部門に健常者に交じって初めて参加し優勝した。「障害者も健常者も関係ないところで1番をいただけた。ここまではこれた」。次の目標は、3年後にドイツで開催される世界大会だ。「音楽って、ほんまいうとコンテストなんて関係ないんですけど、わかりやすいでしょ」と、すでに人生で初めての師匠も見つけ修業を始めている。「僕が世界一になったら『世界の山ちゃん』。そんな名前の手羽先チェーンが確かもうありますけど」と笑う。

 山下さん作曲作詞の『まだやれる』は、こんな歌詞で始まる。

『途方にくれて/うなだれていた夜も/今この時と繋がっている……できること できないこと 受け止めながら/そうしたら気づいた/まだまだ やれる』

 「音楽だけはフリーダム」と歌う山下さんに、音楽とはあなたにとってなんですか-と尋ねた。「世界とつながれるものです」という答えがすぐに返ってきた。さまざまな試練を強みに変えた自由自在な演奏と声、リズム。読者の皆さんにも、ぜひ一度つながってみてもらいたい。

     ◇

 【プロフィル】山下純一(やました・じゅんいち) 昭和50年、京都府向日市生まれ。進行性の難病で若い頃に歩行ができなくなり視力も失うが、全盲で車いすのミュージシャンとしてハーモニカのほかボーカル、パーカッション、ドラムも手がける。平成25年、障害者ミュージシャンの全国コンテスト「ゴールドコンサート」でグランドチャンピオン。30年、国内最大のハーモニカの大会「FIHハーモニカコンテスト」のブルースハープ部門で優勝。現在、ラジオ大阪( http://www.obc1314.co.jp/ )の「山下純一のバリアフリーFUNK!」でパーソナリティーも務める。演奏や歌は公式サイトでも視聴できる。

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