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【一聞百見】令和の代替わり「教えないこと」を教わる 十六代樂吉左衞門さん(37)

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十六代を継承した樂吉左衞門さん=京都市上京区(鳥越瑞絵撮影)
十六代を継承した樂吉左衞門さん=京都市上京区(鳥越瑞絵撮影)
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 京都に約450年続く樂焼(らくやき)の家がある。茶の湯の大成者、千利休の創意を受けて樂茶碗を創り出した陶工・長次郎を初代とする樂家。今も茶道の家元、千家の茶碗を造る茶碗師を務め、当主は代々樂吉左衞門(らくきちざえもん)を名乗ってきた。新たな御代を迎えた令和元年7月、十五代が隠居して、十六代に代替わり。若き当主に伝統を担う覚悟を聞いた。

「十六代の茶碗」造りたい

 「座禅のときに警策(けいさく)(棒状の板)でピシッと打たれたときのような感じ。思っていた以上に引き締まった気持ちがしています」。戸籍も届け出て名実ともに樂吉左衞門に、父は隠居名の直入(じきにゅう)となった。旧家などでは戸籍名を変える例はあるが、父の場合、生まれたときの名から吉左衞門を経て直入へ。3度というのは戸籍法が制定されて以降、珍しいという。

 日本の伝統文化、茶道は千利休が大成した。京都には、利休を祖とする千家の茶道具を作る職方の十家、「千家十職(せんけじっしょく)」があり、樂家はそのうちの茶碗師だ。初代長次郎は利休のためにそれまでになかった新たな茶の湯の茶碗、赤と黒の樂茶碗を造った。

 以来四百有余年。茶碗という限定された造形であるにもかかわらず、樂家の歴代はそれぞれが個性あふれる独自の茶碗を残したことで知られる。十五代を担った直入さんの作品も、前衛的と評され芸術性が高い。だが、考えてみると歴代の作風が違うというのが不思議。職人はよく一子相伝といいますが-。

 「わが家には秘伝書も釉薬(ゆうやく)の調合などを記した文書もありません。しいていえば“教えないことを教わる”のが家訓でしょうか。祖父(十四代覚入(かくにゅう))は伝統とは決して踏襲ではない。その時代を生き、己の世界を築き上げねばならないと考えていたようです」と樂さんはいう。

 二代も三代も初代のまねをせず、独自の茶碗を造った。教えると型にはまってしまいがちだが、樂家の伝統は違う。千家の意をくむことを第一に、時代を超えるものを当主自身が模索してオリジナリティーを追究した。

 「窯(かま)を手伝っていれば手順は自然に覚える。そこから先はそれぞれです。そういえば1月4日に手始め式というのがありまして…」。聞けばその年の恵方(えほう)に向かってまず父が黒と赤の樂茶碗を造る。樂さんは弟(雅臣さん)と一緒に正座して見守った。次に樂さん、続いて弟が茶碗を造るのだそう。いわば茶碗師の仕事始めだ。

 「父がストイックに茶碗と向き合うのを見てきました。今、ふすまを隔てて仕事場が隣り合うのですが、僕が入ると父の(茶碗を削っていた)篦(へら)の音が一瞬止まってまた動き始めるんです」。親子にしてこの緊張感。「父も祖父も曽祖父も、そうして歴代にない新たな茶碗を生み出してきました。僕自身も見れば十六代とわかるお茶碗を造りたいと思います」

反発しながらも窯にひかれ

 茶道の家元、千家の茶碗を造る京都・樂家。十六代を継承したばかりだが、自身はよく覚えていない“証拠写真”がある。樂家で最も大切な窯場(かまば)(茶碗などを焼く窯が3基ある)で撮影されたものだが…。「僕が窯場にいてその下がぬれている。おもらしをしたらしいんです」

 稲荷(いなり)明神を祭り、周囲にはしめ縄が張り巡らされた窯場は荘厳な空間だ。子供の頃から気軽に入れる場所ではなかった。年に2回、十数人の手伝いが集まり窯に火が入る。「朝起きるとコトン、コトンとふいご(送風する道具)の音がして特別な日だということがわかる。でもまだ僕は幼くて遠い存在だったのに、入ってみたら何かを感じたんでしょうね。畏敬の念というか畏怖に近かったかもしれません。びっくりしてしまってつい、だったんでしょう」

 おもしろいのは、それを見た父、十五代直入(じきにゅう)さんがせっかくだからと写真を撮ったこと。大切な場所でおもらしをした息子を怒るどころか…。「窯場に何かを感じたと理解して『あ、良かった』と思ったらしいのです」と苦笑する。私見だが、伝統を継ぐ立場の息子が、その重みを敏感に感じ取ったことがうれしかったのではないか。

 そんな樂さんだが、反発した時期もあった。「両親は(継げとは)一切、言いません。でも周りに言われて気づきますよね。敷かれたレールの上を行くことに反発し、覚悟を決めるまでに時間がかかりました」。実は父の直入さんも強く反抗した時期があった。

 「父は大学在学中イタリアに留学し、なかなか帰ってこなかった。祖父が樂家に訪れた方から『ご子息は』と心配されたのですが『大丈夫や』と。『小さいころから窯を見ていてあいつの中にはその熱い血が流れているから』と話したそうです」。それは自身も同じ。反発しながらも、窯は幼いころからずっと好きだった。樂家に生まれ育つと、窯や茶碗造りの魅力から離れることはできないらしい。

 愚問だが、あえて歴代のうちだれにひかれるか聞いてみた。「初代長次郎(千利休の求めに応じて樂焼を創始)は別格です。本阿弥光悦(芸術家で樂家の支援者)の影響も受けたモダンな三代道入(どうにゅう)、あと、どうしても目の前の父は意識してしまいますね。(特殊な焼貫(やきぬき)という技法で造られた)焼貫茶碗はやはりかっこいい」。

 父と比べられることについてはどう思うのか。意外なほどあっさりとした答えが返ってきた。「父の背中はすごく大きいのですが、祖父、曽祖父と、父の他にも14人の大きな背を持つ歴代がいる。そのことの中心に樂焼の原点である初代長次郎がすべての軸として存在する。大きな存在は父だけではないということに気づきます」

土を3代先へつなぐ

 いま、京都市上京区の樂美術館で夏期展「楽焼って何だろう? 茶碗?肌?ぬくもり」(18日まで)が開かれている。手がけた樂さんはまずは、気軽に親しんでほしいという。「茶の湯のお茶碗の美術館というとつい、構えてしまわれるようで…。『樂美術館って入ってもいいんですか』とおっしゃる方もいて、もちろん美術館なのでどうぞって」と苦笑する。

 そんな間口を広げようと「樂茶碗の魅力を一部切り取ってみた」(樂さん)のが今展。テーマは「肌触り」だ。「ゴツゴツ。ザラザラ。ツルツル」。チラシには色も形も異なる3つの茶碗とともにそんな言葉が躍る。

 「お茶会でも、古いお茶碗になればなるほど、使わずに飾られているんです。仕方がない部分もあるんですが、やはり使ってほしい。そのために生まれたお茶碗ですから。お茶を飲んで初めて『あ、熱さが直接手に伝わらない』とか『このやわらかさがいい』とか。感じとっていただけると思う」。そして、そこにこそ、千利休が初代長次郎に求めて生まれて以来、愛されてきた樂焼の魅力があった。「樂茶碗は、ろくろを使わず手捏(てづく)ねという技法で造ります。両手の自然な姿に添い、てのひらそのものを土が写し取ったような。肌も硬く焼き締めずに土のやわらかさを残すんです」

 同展では、桃山時代の初代から当代まで貴重な作品がズラリ。一つ一つ、収蔵庫で手触りや色、形を確かめながら選んだそうだ。興味深い一角があった。なぜか石や炭が並んでいる。説明を見ると「十二代弘入(こうにゅう)が集めた土」などと書かれていた。「加茂川の石」「薬師寺(奈良県)の土」などもある。

 「だいたい3代前の先祖が集めた土を使ってお茶碗を造っています。父が使っているのが十二代の集めた土。100年以上前のものです。もう少なくなってきて、使うなよと言われています」と笑う。代々、良質な土を見つけるとこうして子孫のために集めて保存してきた。樂さんが使うのは、曽祖父である十三代惺入(せいにゅう)が集めた土だ。ところで最近、おもしろい土が入ったという。「薬師寺で修復中の国宝、東塔の基壇の土を少量送ってくださったんですが、とてもいい土で。翌日、父が土をもらいに飛んでいきました」。樂さんも、3代先の子孫のためにこれから土を集めていく。これも代をつなぐ、伝統を引き継ぐということの一端だろう。

 実は襲名にあたり、お披露目会などはなかった。その代わり父と2人で亭主を務め、お世話になった人を自宅の茶室に招いている。いわば襲名披露の茶事だが、一席3名と人数が限られるためあと2年はかかるそうだ。京都らしい話である。「緊張しますが、その中でのお点前も庭の掃除一つとっても勉強。お客さまとの間合いや呼吸のようなもの、そんなすべての物事が茶碗造りにつながる気がします」。9月には第1子が誕生する。2年後に開く襲名後初の個展が楽しみだ。

【用語解説】樂焼(らくやき) 桃山時代の16世紀、初代長次郎が千利休の求めで茶の湯のための赤樂・黒樂茶碗を創造し、当初は全く新しい焼物として「今焼(いまやき)」と呼ばれた。豊臣秀吉の「聚樂第(じゅらくだい)」近くに居を構えていたことなどから後に「聚樂焼き茶碗」、やがて「樂焼」「樂焼茶碗」と称される。ろくろを使わない「手捏ね」、篦削りの工程を経て、樂家独特の内窯(うちがま)で焼成。吸水・保水性に優れ、やわらかく温かみのある質感が特長。

【プロフィル】じゅうろくだい らく・きちざえもん 昭和56年、十五代樂吉左衞門(現・直入)の長男、篤人(あつんど)として京都に生まれる。平成20年、東京造形大卒、21年京都市伝統産業技術者研修・陶磁器コース修了後にイギリス留学。23年、樂家で作陶に入り、父から惣吉(そうきち)の花印を授かる。令和元年7月、十六代を襲名。

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