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【一聞百見】朝乃山の親方デス! 定年までに もうひと花を咲かせたいネ 元大関・朝潮の高砂親方(63)

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初優勝した朝乃山(右)にうれしそうに語りかける高砂親方 =両国国技館(福島範和撮影)
初優勝した朝乃山(右)にうれしそうに語りかける高砂親方 =両国国技館(福島範和撮影)
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 5月の大相撲夏場所で平幕優勝を果たした朝乃山。おかげで、高砂部屋が日本中の注目を浴びている。親方は元大関・朝潮。優勝の一夜明け会見で突然、割り込み「賞金たくさんもらったんだから、部屋にクーラー買ってくれよ」と言って報道陣を笑わせた。そう、あの「大ちゃん」である。(聞き手 編集委員・田所龍一)

■次勝ち越したらほんまもん

 6月、東京・墨田区本所の高砂部屋を訪ねた。「そりゃあ驚いたわ。前頭8枚目やで。けど、初日の鋭い立ち合いを見たとき、今場所はそこそこやるという予感はあった。優勝はたいしたもんや。まだクーラー買ってもらってへんけどな」

 だが、次の名古屋場所に話が及ぶと「同じ柳の下にドジョウは2匹おらん」とピシャリと言い切る。番付は東前頭筆頭に上がった。今度は横綱や大関とも当たる。「その中で勝ち越したらほんまもんや」という。勝機はある。朝乃山の得意は右四つ。厳しい立ち合いができるかどうか-にかかっている。「“組んだら強い”といわれる力士は、組むまでが弱いからそう言われとるんや。立ち合いでぶちかます、押す、突っ張る、かち上げる。厳しい攻めがあって初めて得意な形に組める。それが強い“四つ相撲”なんや」

 昭和54(1979)年の初場所で好成績を残した朝汐は3月の大阪場所で前頭6枚目から「筆頭」に上がった。だが、初日に横綱・輪島に転がされると8連敗。9日目に“不戦勝”でようやく勝ちを拾った。結局5勝10敗。以降3場所連続で負け越して14枚目まで落ちた。逆に勢いに乗ってポンポンと出世する力士もいる。「ワシみたいにな」「えっ、誰が?」。思わず顔を見合わせ、笑ってしまった。

【「覚えてる?」34年ぶりの再会】

 出会いは昭和54年3月の大阪場所前。入社1年目の筆者はいきなり「朝汐番」を命じられた。原稿も書かずに一日中一緒。同い年の2人はタニマチの家で野球盤ゲームをしてよく遊んだ。ある日、大ちゃんが言った。「このまま相撲担当するんか? 関西のスポーツ紙なら阪神担当や。“虎番”は横綱やろ。オレなら横綱目指すな」。その日、筆者は上司に「阪神担当させてください」と直訴。翌日から野球班に回された。

入門したての近大・長岡(左)。隣は高砂親方(3代目朝潮)(いずれも当時)
入門したての近大・長岡(左)。隣は高砂親方(3代目朝潮)(いずれも当時)
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 再会は60年の神宮球場。筆者は「虎番」となり大ちゃんは「大関」に。「久しぶり過ぎるやろ!」と笑って叱られた。それからまた一度も会わずに時代は「平成」「令和」へ。6月13日、東京・墨田区本所の高砂部屋を訪ねた。「覚えてる?」と聞くと「えらい大昔やのう。34年ぶりの再会? やっぱり忘れたわ!」と大ちゃんは笑った。

初優勝して先輩の富士桜(右)と握手し号泣する朝潮=昭和60(1985)年
初優勝して先輩の富士桜(右)と握手し号泣する朝潮=昭和60(1985)年
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■めぐり合えるかは「運」次第

 「朝潮」という四股名(しこな)が番付表から消えて、もう30年以上がたつ。5月の夏場所で平幕優勝した朝乃山は母校近大の後輩。うってつけの“後継者”出現か-と思われた。だが、高砂親方は「それは考えていない」と断言する。力量不足と思っているわけではない。「優勝したことで朝乃山という名前が全国に定着したしな。それにあいつにはあの名前に思い入れがあるんや」

 朝乃山英樹の「英樹」は“恩師”である母校・富山商相撲部監督の浦山英樹さんから取ったもの。常に励まし、導いてくれた恩師は平成29(2017)年1月、がんのため40歳で急逝した。五代目朝潮太郎を継ぐということは、「英樹」の名を捨てることを意味する。そんなことはさせたくない。断言の裏には親方の優しい思いやりがあった。

 大ちゃんが本名の「長岡」から「朝汐」になったのは昭和54(1979)年。大ちゃんは高砂部屋で由緒ある「朝汐」をもらった。当初は「朝潮」を名乗る予定だったが、画数が良いというので「朝汐」に。「重たかった。前頭のオレが名乗ってええんかいなと悩んだわ。朝汐(朝潮)とは横綱、大関の四股名。小結や関脇でもあかんのよ。名に恥じない相撲をとらな-とそればっかり考えとった」

 昭和57年に「朝潮」に改名する。「ちょうどそのころから、自分の相撲、四代目朝潮の相撲がとれるようになった」からだ。「朝潮」を継ぐ力士はいるのだろうか。「育てたいね。というより、そんな子にめぐり合いたい。会えるかどうかは“運”次第やけどね」「運?」「そう、運や。誰でもええから継がす、というわけにはいかん。継げる力と覚悟がないとな。定年まであと1年半、めぐり合えんかったらしゃあない。運がないとあきらめな。代々受け継がれてる名前とはそれほど重いということやな」

 厳しくも寂しい話のように思えた。

「運が良ければ…」と笑顔で話す高砂親方 =東京都墨田区本所の高砂部屋(松本健吾撮影)
「運が良ければ…」と笑顔で話す高砂親方 =東京都墨田区本所の高砂部屋(松本健吾撮影)
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【先輩・富士桜の「涙」で感極まり】

 昭和60年3月の大阪場所で大関・朝潮は千秋楽、大関・若嶋津との12勝2敗“相星決戦”を制して初優勝した。支度部屋で先輩の富士桜と握手し号泣。翌日の紙面には『朝潮、涙の初優勝』と報じられた。「ほんまは、あれは優勝したのがうれしくて泣いたんやないんよ。あの場所での富士桜さんの引退が決まっててな、オレの手を握った富士桜さんの頬に涙がスーッと…。とたんに感極まってしもた」

 それまで何度も優勝を逃してきた。いつも花道の奥で心配そうに見守ってくれていたのが先輩の富士桜と高見山。「申し訳なかった。けど、最後の最後に優勝パレードで優勝旗を持ってもらうことができた」

漫才コンビみたい? 「おかみさん」の恵さんと高砂親方 =東京都墨田区本所の高砂部屋(松本健吾撮影)
漫才コンビみたい? 「おかみさん」の恵さんと高砂親方 =東京都墨田区本所の高砂部屋(松本健吾撮影)
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■「もうひと花咲かせなあかんよ」

 「おかみさん」の話をすると、とたんに大ちゃんの目が一段と細くなる。親方より8歳年下の恵さん。さぞや熱烈な恋愛結婚かと思いきや、なんとお見合い結婚。きっかけはある年の大阪・今宮戎神社。「福娘」に選ばれた恵さんは、テレビ局のインタビューで「大阪の人気者といえば大相撲の朝潮関。好きな人は?」。「はーい」と手を挙げた。その放送をたまたま朝潮の両親と近大相撲部の同級生のお母さんが見ていた。「こんな人が大ちゃんのお嫁さんに来てくれたらええのに…」

 恵さんのお父さん芋縄純市氏は大阪のスーパーチェーン「コノミヤ」の創業者。そして近大ボクシング部出身。縁はどんどんつながっていく。そして同級生の家でお見合い。「会った瞬間、背中にビビビと電気が走ったわ。松田聖子よりオレの方が早いで」と鼻高々。「ビビビ」とは平成10(1998)年、歌手の松田聖子が電撃再婚した際「会った瞬間にビビビときたの」と発言。“ビビビ婚”といわれた。

 〈そんな古い話、誰も覚えてへんで〉

 当時、相撲部屋のおかみさんの理想像は“しっかり者”。「ウチの女房もテレビに出たんやが、イメージは“ちょっぴりドジなおかみさん”。玄関の扉を弟子と一緒に拭いとって、扉を閉めて弟子の指を挟むし、しっかりテレビに撮られとったよ。でも、そのちょっと抜けたところが、ええんやなぁ。弟子たちにも人気がある」

 「ええ夫婦(めおと)漫才コンビやね」「ほんまや、オレがつっこみで女房がボケや」そんな話をしているところへ「おかみさん」が顔を出した。「なんか、私の話してるみたいで、気になるわぁ」というわけで2人のツーショット。「あんまり定年、定年いうて親方を追い込まんといてね。まだ、1年半あるし、これからひと花もふた花も咲かせてもらわんとあかんのやから」

 そう、大ちゃん、おかみさんのいう通り。63歳、お互いこれからでっせ!

なんと幸せそうな大ちゃんの顔 =昭和61(1986)年、東京都千代田区のホテル・ニューオータニ
なんと幸せそうな大ちゃんの顔 =昭和61(1986)年、東京都千代田区のホテル・ニューオータニ
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【大ちゃん復活も?定年後の去就に注目】

 あと1年と半年で65歳。高砂親方は“定年”を迎える。申請すれば5年間の定年延長が認められる。その場合、「高砂」の名跡は返上。部屋は持てなくなるが、部屋付きの親方となって力士の指導はできる。では、延長しなければ?

 協会から外れ、舞の海や北の富士のように現役時代のしこ名「朝潮」を名乗ってもいい。ファンとすれば「大ちゃん」復活-もうれしい。ただし、タレント活動や相撲の解説はできても、力士の指導はできなくなる。そこが悩みどころ。「5代目朝潮や横綱を自分の手で育てたい-と思ったら、部屋付き親方になるしかないな。まぁ、ゆっくり考えるわ」

     ◇

 【プロフィル】七代目高砂浦五郎 元大関・朝潮太郎(四代目)、本名・長岡末弘(すえひろ)。昭和30(1955)年、高知県室戸市出身。近大時代に2年連続で学生・アマ横綱に輝く。卒業後、高砂部屋に入門。「大ちゃん」の愛称で親しまれる。昭和53年3月「長岡」で初土俵。以後「朝汐」「朝潮」と改名し58年3月に大関昇進。60年3月の大阪場所で初優勝。平成元(1989)年3月引退。翌2年に「若松部屋」を起こし、14年に「高砂部屋」を継承。横綱・朝青龍らを育てた。

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