PR

【一聞百見】やじ将軍、実は阪神優勝の立役者 小林繁、中村勝広…野球解説者でOB会長・川藤幸三さん(69)

PR

21年ぶりのリーグ優勝を果たした阪神の選手たちは3番目に川藤を胴上げした =昭和60(1985)年10月16日、神宮球場
21年ぶりのリーグ優勝を果たした阪神の選手たちは3番目に川藤を胴上げした =昭和60(1985)年10月16日、神宮球場
その他の写真を見る(1/5枚)

 昭和60(1985)年10月16日、神宮球場が歓喜に包まれた。阪神タイガースの21年ぶりのリーグ優勝。吉田義男監督の胴上げが始まった。続いて主砲の掛布雅之、そして次に担ぎあげられたのが川藤幸三だった。「お、お前ら、何をするんじゃ。こら、放さんかい!」。驚く川藤に構わず、選手たちは手足を持ち上げ思いきりほうり投げた。

 「びっくりしたで。胴上げちゅうもんは、その年一番活躍したスターがされるもんや。ワシは、な~んも働いとらへん。ほんまにこの連中と一緒にやってきてよかった~と心底思たな」

 60年、川藤は31試合に出場し、放ったヒットはわずか5本、本塁打はゼロ。それでもいつもチームの中心にいた。居場所は阪神ベンチのど真ん中。“やじ将軍”と呼ばれたが、やじられるのは相手チームばかりではない。自軍のコーチや吉田監督までやじった。

川藤の居場所は、いつも阪神ベンチのど真ん中 =甲子園球場(松永渉平撮影)
川藤の居場所は、いつも阪神ベンチのど真ん中 =甲子園球場(松永渉平撮影)
その他の写真を見る(2/5枚)

 筆者はある試合で不思議な光景を見た。ベンチで川藤が「こんなところで送りバントのサインを出すのは誰や!」「投手交代やて? マウンドに行かせるな!」と吠(ほ)えているのを聞いたのである。首脳陣批判どころか、それはもう“反逆”だった。〈あぁ、カワさんがクビになる〉と心配した。ところが、翌日、何もなかったかのように首脳陣と談笑しているではないか。その時の疑問をぶつけた。すると「実はな、あれには訳があったんや」という。

 5月、川藤は一枝修平コーチに呼ばれた。「カワ、お前、選手と首脳陣の“つなぎ役”になってくれへんか」。突然の申し出に「それはコーチの役目や。ワシ、そんなんできまへん」と断った。ところが次の日も次の日も…。

 「カワよ、優勝するためには、選手の心をひとつにまとめなアカンのや。それができるんはお前だけや。お前も優勝したいやろ。コーチ会議で決まって、監督も『それしかない』というとるんや」

 川藤はついに受けた。だが、ひとつ条件をつけた。「おかしいと思た采配には監督にでもワシは吠えますよ。それを許してくれるんやったら、やります」。なんと公認の首脳陣批判だったのである。

 川藤はベンチのど真ん中で吠えた。バットで扇風機をたたき壊したことも。それは選手たちの“代弁”でもあった。吠えるたびに猛虎は一丸となっていった。「そのかわり、ワシはちいとも試合に使ってもらえんようになったわ」

 選手たちはそんな川藤をちゃんと見ていた。だから60年の胴上げも「掛布の次に上げる。カワさんには絶対に内緒やで」と事前に決められていた。

 「優勝もしたし翌年にはオールスターにも初めて出させてもろた。ワシの野球人生にな~んの文句もないで」。川藤は満足そうに話した。

阪神時代の小林繁には時折、“寂しさ”が漂っていた
阪神時代の小林繁には時折、“寂しさ”が漂っていた
その他の写真を見る(3/5枚)

■大切な友 コバが教えてくれた存在価値

 平成になって川藤は2人の大切な友を失った。平成22(2010)年に小林繁(当時日本ハム投手コーチ、57歳=心筋梗塞)、27年には中村勝広(阪神GM、66歳=脳出血)を。

 「コバ(小林)もカツ(中村)もぎょうさん責任を背負い込んで。『何を格好つけとるんや。人間はそんなに力のあるもんやない。あれもこれも背負い込んだら倒れるだけやぞ。しんどかったら、荷物を下ろさんかい!』と何度も言うてやったんやが、2人ともそれができん人間やった」

 2人の話をするとき川藤はどうしようもなく悲しい顔になる。

 あの「江川騒動」で阪神に入団した小林とは昭和54年、ロッカーが隣同士で親しくなった。2歳年下の小林は川藤のことを「おっさん」と呼んだ。

 「56年のシーズンやったかな。横浜遠征で“話があるんや”と」。2人は酒のボトルを買い込み、ホテルの部屋で話し込んだ。「そのときにコバが『おっさん優勝しようや。このメンバーで優勝できんのはおかしい』と言い出した」という。会話を再現すると…。

小林「巨人は長嶋さんでも王さんでも上(監督、首脳陣)から言われることには絶対服従だった。組織の一員としての教育ができていた。ボクが阪神に来て一番に感じたのは、オレがオレが-の選手が多く、そういう意識が選手にないこと。この戦力で優勝できないのは、みんなバラバラだから。それがまとまったらどれだけの力になるか…。だから、おっさん中心でまとめてほしい」

川藤「ちょっと待て、コバ。言うとくがオレは補欠やぞ。あした2軍に落とされるかもしれん。できるわけないやろ」

小林「できる。いや、おっさんしかいない。掛布も岡田も真弓もおっさんのいうことなら聞く。優勝したくないの?」

川藤「そら、したいわい!」

小林「だったら、頼むよ」

甲子園球場の歴史館に展示されている小林のサインボールと川藤のユニホーム (森本幸一撮影)
甲子園球場の歴史館に展示されている小林のサインボールと川藤のユニホーム (森本幸一撮影)
その他の写真を見る(4/5枚)

 2人の話し合いは朝まで続いたという。結局、川藤が野手を小林が投手の面倒をみることになった。もちろん、すぐに結果は出ない。次の年もその次も…。優勝を実現するには、小林が引退して2年後までかかった。

 「こんな補欠でも“存在価値”があるちゅうことをコバが教えてくれたんやな。感謝しとる」

 鳥取県出身の小林の遺骨の一部が福井県永平寺町の「本覚寺」に納められている。平成13年、近鉄のコーチを解任され、職にあぶれた小林に、川藤が故郷福井県のゴルフ場の仕事を世話したのが同県との“縁”の始まり。少年野球チームのコーチをし、奥さんともそのゴルフ場で知り合った。

 〈コバさんも天国で感謝しとるんやない?〉

 「そうかなぁ」。照れくさそうに川藤は少し笑った。

■歴史をつなぐ 体動く限り 野球と生きる

 令和の時代になった。5月、川藤は甲子園球場の阪神ベンチのど真ん中で、いつものように試合前の練習を見ていた。

 川藤は年間120試合以上、球場へ足を運ぶという。本拠地の甲子園だけでなく東京ドームや神宮、広島-と時間の許す限り遠征先の球場にも顔を出す。

 毎年、読売テレビと野球解説者の契約を交わしているが、年々、地上波の試合中継は減る一方。今季同局の放映はわずか5試合。うち3試合を川藤が担当する。1シーズン3試合の解説のために120試合以上、球場に行き、阪神だけでなく敵チームの練習も見る。

 そんなことをしている解説者は一人もいない。みな、自分の担当の試合の日だけ球場に来て、練習も見ず解説する人がほとんどだ。

 「人のことは知らん。ワシはそうする、それだけや」

 もちろん、放送局から旅費も宿泊費も出ない。

 「自腹切っとる。けどな、いつ何を聞かれても答えられるようにするには、練習を見んと分からんやろ。見とったら、少しの違いが見えてくるんや。おぉ、こいつ、こんなタマを打てるようになりよった。選手の成長が見えるんや」

 川藤はうれしそうに話す。だが、なぜ、そこまでするのか-。

 「そら当たり前の話や。ずっと野球の世界で生きてきた。ワシの仕事は野球なんや。だから、野球を大事にせにゃいかんのよ」

試合前、阪神ベンチのど真ん中でルーキー近本を励ます川藤=甲子園球場 (松永渉平撮影)
試合前、阪神ベンチのど真ん中でルーキー近本を励ます川藤=甲子園球場 (松永渉平撮影)
その他の写真を見る(5/5枚)

 いまもずっとベンチのど真ん中に座り続けるのには訳がある。それは昭和60年に初代ミスター・タイガース、藤村富美男から言われた“仕事”を果たすため。

 シーズン中のある日、川藤は甲子園球場のOB室の横を通った際、藤村に呼び止められた。

 『カワちょっと来い。あのな、お前のヒットなんかどうでもええ。ベンチでふんぞり返っとるのが大事なんや。お前はタイガースの歴史を分かっとる。後輩にそれをつないでいくのがお前の仕事や。華やかな舞台は人に任せとけ。お前は自分の仕事を果たせ。分かったのう、カワ!』

 「初めはこのオッサン、何を言うとるんや-と思ったけど、あの言葉で『あぁ、ワシもタイガースの人間になれた』と感激したな」

 言葉通りふんぞり返って優勝は果たした。けれど後輩たちへ歴史をつなぐ役目はまだ道半ば。それが「令和」のOB会長の使命だという。

 「野球に生かされてきたんや。体が動く限り、最後まで野球とともに生きていたいな」

 川藤幸三、7月5日で70歳。古来希(まれ)なる男である。   =敬称略(聞き手 元虎番記者・田所龍一)

     ◇

     ◇

 ◆カワさんの宝物: 2本の〝国民栄誉賞〟バット

 1本は巨人・王貞治選手のバット。現役引退の最後の巨人―阪神戦(後楽園)で「その汗のついたバットがええんです。サインもなしで結構です」ともらった。

 もう1本は広島・衣笠祥雄選手のバット。「試合前の練習でバットを全部折って、キヌさんにバットくださいと」。その後、2本は〝国民栄誉賞バット〟になった。

 ◆カワさんの宝物: 背番号「4」

 入団当初は「45」。当時40番台は2軍選手の番号で「せめて背番号ぐらい1軍の番号がほしい」と空いていた「4」を要求した。7代目。“死に番”といわれても「何が悪い番号や。ワシの尊敬する長嶋さんと王さんの番号を足した数字や。それに幸せの“し”。喜びの“よん”やないか。物はなんでも考えようやで」。今は16代目、熊谷敬宥(くまがい・たかひろ)内野手が受け継いでいる。

 ◆カワさんの宝物: 双子の愛娘

 平成6年、カワさん45歳のときに授かった。「うれしかったのう。子供がおらん悲哀ちゅうのは…女房が一番つらかったと思う。結婚19年目、2匹残っとった。ワハハハ」

 生まれた当時、筆者が「なんか漫才師みたいな名前ですね」というと「アホ! ワシも女房も田舎育ちやから、この子たちものどかに、ほのかに育ってほしい-と思って付けたんや」。その2人も今年、25歳の超美人のお嬢さん。就職して東京住まいとか。「寂しい? 女房が寂しがっとるわ」とカワさんは強がってみせた。

     ◇

【プロフィル】川藤幸三(かわとう・こうぞう) 昭和24年7月5日、福井県生まれ。42年のドラフト9位で阪神タイガースに入団。当初は俊足、強肩の選手だったが、49年にアキレス腱(けん)を痛め、以後は「代打」の切り札として活躍。60年に吉田義男監督の下で21年ぶりのリーグ優勝、初の「日本一」に貢献。翌61年のオールスター出場を“花道”に現役を引退、野球解説者に。平成2年、中村勝広監督の下で1軍コーチに。22年に田淵幸一の後任として第7代阪神OB会長に就任。771試合出場、打率2割3分6厘、16本塁打。108打点。

この記事を共有する

おすすめ情報