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【一聞百見】編集委員・亀岡典子が聞く/吉田和生さん(71)文楽人形遣い/文楽が描く人の情、次代に

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 大阪の伝統芸能というと、真っ先に思い浮かぶのが、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)文楽(ぶんらく)ではなかろうか。ドラマチックな義太夫節と人間より繊細な動きをする人形が一体となって、迫力たっぷりに人間ドラマや情を描き出す。まさに世界でも類を見ないオリジナリティーに富んだ舞台芸術だ。近年、観客動員数も増え、外国人や若いファンの姿もよく見かける。人形遣いの人間国宝、吉田和生さんに、文楽の楽しさ、深さ、そして人形がもたらす奇跡まで、たっぷりと語ってもらった。(聞き手 亀岡典子)

文楽人形の首を見つめる吉田和生さん。「同じ種類の首でも少しずつ顔立ちが違うんですよ」=大阪市中央区の国立文楽劇場(渡辺恭晃撮影)
文楽人形の首を見つめる吉田和生さん。「同じ種類の首でも少しずつ顔立ちが違うんですよ」=大阪市中央区の国立文楽劇場(渡辺恭晃撮影)
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■師匠の当たり役、受け継いで

 無念の思いを胸に覚悟の死に装束を身につけ、切腹する塩谷(えんや)判官(はんがん)。駆け込んできた家老の大星由良助(おおぼし・ゆらのすけ)に、わが無念を晴らしてほしいと切腹の刀を託す-。文楽の本拠地、大阪・国立文楽劇場で上演中(4月29日まで)の「仮名手本(かなでほん)忠臣蔵(ちゅうしんぐら)」。江戸時代の赤穂浪士の仇討(あだう)ちをもとにした文楽屈指の大曲で、和生さんは塩谷判官の人形を遣(つか)う。

 「判官さんは、史実の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)で、赤穂藩5万3千石の藩主です。そういう品を大切に遣いたい。この人のために浪士やその家族が苦労や悲しみを経験し仇討ちを成し遂げた。それぐらいの人物に見えないと」

 塩谷判官は和生さんの師匠で人間国宝だった吉田文雀さんの当たり役でもあった。「師匠が大切にしていた役を受け継いで遣わせていただけるのはありがたいこと」としみじみ。「それに今月、お客さんがよく入ってくださっている。うれしいですね」。ほっとした表情に人形遣いの第一人者としての責任感がのぞく。

 そもそも、「仮名手本忠臣蔵」は、事件の発端からして史実と異なる。「史実と創作がないまぜになっているところが、古典芸能としての『仮名手本忠臣蔵』のおもしろさじゃないでしょうか。仇討ち自体、いまの日本ではないかもしれないけれど、人間の感情はいつの時代も変わりませんからね」

 インタビュー取材の部屋に判官の人形を持って来てもらった。和生さんが遣っていないときはただの人形。和生さんが持った途端、顔に表情が宿る。命が吹き込まれる、とはまさにこのこと。「文楽の人形の顔にはもともと表情がない。僕らが遣うことで、喜怒哀楽のすべてを表現する。でも、そこにいくまでには『足(遣い)10年、左(遣い)10年』といわれるほど修業が必要です。長い年月をかけてようやく役の性根(しょうね)を決める主遣いになれる」。芸歴52年。一昨年には人間国宝にも認定された。「人間国宝の肩書がついたからといって急に芸がよくなるわけではない。いただいた役を全力で勤めるだけです」

「仮名手本忠臣蔵」より「塩谷判官切腹の段」。切腹した塩谷判官(吉田和生(右))のもとに駆けつける大星由良助(吉田玉男(左))=国立文楽劇場提供
「仮名手本忠臣蔵」より「塩谷判官切腹の段」。切腹した塩谷判官(吉田和生(右))のもとに駆けつける大星由良助(吉田玉男(左))=国立文楽劇場提供
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 ■同期の三羽がらす…切磋琢磨

 「僕はもともと人形遣いに憧れてこの世界に入ったわけではないんです。将来は職人になりたい」。漠然とそう考えていた。「ひとりでコツコツ何かを作るのが向いているタイプ」と自己分析する。

 そこで高校卒業時に訪ねたのが、当時、文楽人形の首(かしら)(頭の部分)を一手に作っていた大江巳之助さん(1907~97年)だったが、運命の出会いが待っていた。大江さんが、文楽の故事来歴に詳しい人形遣いの吉田文雀さん(1928~2016年)を紹介してくれたのだ。のちに、和生さんの師匠になる人である。その時、いまはなき道頓堀の朝日座で初めて文楽の舞台を見た。「芝居のことより、人形遣いはしゃべらなくてもすむな、と思った」。それが人形遣いになった動機。

 昭和42(1967)年、文雀さんに入門。ほぼ同時期、2人の10代の若者が同じように人形遣いに入門した。現在の桐竹勘十郎さん、そして吉田玉男さんである。“三羽がらす”と呼ばれ、よきライバル、よき同志として互いに切磋琢磨(せっさたくま)しながら成長、現在、3人は毎公演、主役を遣うまでになった。「3人とも個性も芸風も違ったのがよかったんやろうなと思いますね」

 和生さんに、2人の芸風について聞いてみた。「僕が言うのもなんやけど」と前置きしながら「勘十郎さんは鮮やか。スター性があってどんな役でもおもしろく遣う。玉男さんはどっしりして余計なことはしない。だから勇壮で悲劇の主人公によく使われる『文七』(首の種類の名称)が似合うんでしょう」。

 では、和生さんは。「僕? 自分のことはわからんなあ」。そういいながらも、「若い頃、ある人に、書生のような雰囲気があるといわれたことがあります。本物の芸人に見えへんということかな」と笑う。「ただ、おなかに一物(いちもつ)あるような複雑な役が好きですね。やりがいもある」。よきライバルの存在が自らを高める。芸の道を行く者にとって、こんな幸せなことはない。

文楽の本拠地、国立文楽劇場の楽屋前で。「同期の勘十郎さん、玉男さんとは、舞台で何も言わずともわかりあえます」と話す吉田和生さん=大阪市中央区(渡辺恭晃撮影)
文楽の本拠地、国立文楽劇場の楽屋前で。「同期の勘十郎さん、玉男さんとは、舞台で何も言わずともわかりあえます」と話す吉田和生さん=大阪市中央区(渡辺恭晃撮影)
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 ■伝統を次代に

 約350年前に誕生した人形浄瑠璃文楽。能、歌舞伎と並ぶ「日本の三大古典芸能」の一つとして平成15(2003)年にはユネスコの世界無形文化遺産にも登録された。だが、その歴史は決して順風満帆ではなかった。戦後まもなく、文楽は2派に分裂、平成24年には大阪市による文楽協会への補助金見直し問題もあった。「でも僕らは信じているんです。文楽で描かれている人間の情は普遍だと」

 和生さんの芸風の基盤は師匠の吉田文雀さんから受け継がれたものだ。「若い頃からずっと師匠にべったりやった」と懐かしそうに振り返る。「師匠の口癖は、『人間でやってみ。やれるか』。人間でその動きや形ができるか、という意味です。それ以上はおっしゃらない。あとは自分で考えろ、と。僕は間は悪いし、特別、人形遣いに合っているとも思わない。ただ、役のとらえ方や表現のしかたが師匠の影響もあって、独特かなあと思っています」

 文楽の人形は、太夫と三味線の浄瑠璃にのっとって動かす。つねに浄瑠璃という枠の中で表現する。「その枠の中で七転八倒しながら考え工夫する。太夫さんと三味線さんが音の世界を作り、その上に人形遣いが映像の世界を作っていく。それが人形遣いの醍醐味(だいごみ)ですね」

2人の弟子に人形の遣い方を指導する和生さん(右)=国立文楽劇場(渡辺恭晃撮影)
2人の弟子に人形の遣い方を指導する和生さん(右)=国立文楽劇場(渡辺恭晃撮影)
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 70代に入り、「ひょっとするとこの役はこれが最後かな」と思うことも。「人形遣いは体力あっての技術。この年齢になると引き際というのを考えることもある。400年近い文楽の歴史のなかで、(主遣いとして)僕が携われるのはせいぜい20年にすぎない。でも、このすごい芸能を質を落とすことなく、なんとか次代に渡していきたい」。だからこそ、一期一会の舞台を全身全霊で勤める。

    ◇

【プロフィル】吉田和生(よしだ・かずお) 昭和22年、愛媛県生まれ。42年、後に人間国宝となる吉田文雀さんに入門。平成29年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。後継者養成のための文楽研修講師も務める。

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