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【2000安打・阿部慎之助を追う】プロとの距離を縮めた中大時代 救急車で運ばれた翌日も試合出場

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プロとの距離を縮めた中大時代 救急車で運ばれた翌日も試合出場

2000安打・阿部慎之助を追う更新
中央大学時代の阿部慎之助。プロから早い時期から注目されていた 1/4枚

 8月13日にプロ17年目で一流選手の“勲章”である通算2000安打を達成した巨人の阿部慎之助(38)。甲子園出場もままならなかった安田学園高時代から、勇躍の機会を得る中大に進学。1年時から日本代表に選出されるなど、プロからも大きな注目を集める選手となっていく。

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 阿部が3年になったときに中大監督に就任した清水達也氏は、初めてそのプレーを見たときの衝撃が忘れられない。春に行われたキャンプでのこと。試合形式の打撃練習で阿部がいきなり右翼席に本塁打をたたきこんだ。「モノが違うなと思った。周りとは違うというのが第一印象だった」

 清水監督は阿部の成長は努力の賜だとみる。ある雨の日の個別練習。阿部は約1時間半、まったく休むことなくボールを打ち続けていた。30分間でも息が上がる選手がいる中で、黙々と打ち込む様子は圧巻だったという。

 人一倍責任感も強かった。主将だった4年の秋。重要な試合前日の練習で打球が頭を直撃した。その場に倒れ、救急車で運ばれたが、翌日、何事もなかったように姿を見せた。自ら志願して試合にも出場したといい、清水監督は「そういうやつなんです」と懐かしそうに振り返る。

 性格はリーダー気質で、「とにかく下のもんから慕われていた」(清水監督)。寮生活での風呂掃除は率先して取り組み、1年生と一緒になって汗を流していた。阿部の“兄貴肌”は、この時から変わらない。

 阿部が4年の2000年、シドニー五輪が開催された。野球日本代表にとって、プロアマ合同チームで臨む初めての五輪だった。

 松坂大輔(当時西武)や松中信彦(当時ダイエー)らプロ選手が名を連ねる中で、阿部も選出された。野手では2人しかいない大学生選手だった。五輪日本代表監督だった大田垣耕造氏(67)は「(阿部は)バッティングがすごかった。目を見張るものがあった。将来的なことを見据えて選んだ」と抜擢した理由を語る。

 大田垣氏は予選リーグの米国戦での阿部の打席が強く印象に残っている。一回2死満塁の好機で、「6番・指名打者」の阿部に打席が回ってきた。結果は痛烈な遊直。「あと50センチどちらかにずれていれば…。試合の結果が変わっていたかもしれない」。結局、この試合は延長戦の末にサヨナラ負け。余計に悔しい一打となった。

 その後、日本は予選リーグを勝ち上がるも、3位決定戦の韓国戦に敗れてメダルを逃してしまう。韓国戦の最後の打者は阿部だった。

写真ギャラリー

  • 中央大学時代の阿部慎之助。プロから早い時期から注目されていた
  • 広島戦の九回1死で、右前打を放ち、通算2000安打を達成した巨人・阿部慎之助=8月13日、マツダ
  • 通算2000安打を達成し、広島・新井貴浩(左)から祝福される巨人・阿部慎之助=マツダ