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【小山評定の群像(86)】最上義光 長谷堂城の戦いで孤軍奮闘

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最上義光 長谷堂城の戦いで孤軍奮闘

小山評定の群像(86)更新

 「上杉勢への手出しは無用」。小山評定直前の1600(慶長5)年7月23日付で、徳川家康は最上義光に手紙を出した。上杉攻めの中止は評定前に決まっていたのである。

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 義光は家康の依頼で北から上杉を攻める準備を整えたばかり。随分勝手な中止要請だが、上方を空にして石田三成の挙兵を誘う家康の計算通りに事態が進んでいた。最上義光歴史館(山形市)の学芸員、揚妻(あげつま)昭一郎さんは「義光はかなり前から家康との関係を大事にしていた」と話す。

 「奥羽諸将は自国の防衛もままならぬまま山形に集結したのでこれ幸いにと引き揚げていった」といい、最上勢は独力で上杉軍と対峙(たいじ)することに。直江兼続率いる上杉軍3万6千が三方から侵攻し、北の関ケ原「慶長出羽合戦」が始まる。最上勢は8500。兼続は最上の支城を次々と落とし、本城・山形城も「時間がかかるまい」と豪語。義光は支城の兵を撤退させ、中央に集中。地の利を生かしたゲリラ戦や夜襲で上杉軍を悩ませた。激戦の長谷堂城の戦いを中心に奮闘。9月末には両軍が関ケ原の戦いの結果を知る。

 この合戦の戦場や上杉軍進軍ルートを現地調査している同館サポーターの松本芳雄さんは「一気に攻められていたら山形城は持たなかった」。

 謀略を駆使するヒールのイメージが定着している義光だが、揚妻さんは「内政に力を入れ、戦いは犠牲の少ない方法を好んだ。清和源氏、足利氏、斯波氏の流れから信仰心のあつい家柄だった」と強調する。

                  

 最上義光(もがみ・よしあき)1546~1614年。関ケ原の戦いの後は24万石から57万石に加増。長男・義康は廃嫡。跡を継いだ次男・家親は急死し、家督は家親の子・義俊が継いだが、家中の騒動で改易。四男・山野辺義忠は水戸藩家老。