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【戦後70年】特攻(1)少年兵5人「出撃2時間前」の静かな笑顔…「チロ、大きくなれ」それぞれが生への執着を絶った

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特攻(1)少年兵5人「出撃2時間前」の静かな笑顔…「チロ、大きくなれ」それぞれが生への執着を絶った

戦後70年更新

 特攻隊に少しでも関心を持った人なら、一度は目にしたであろう1枚の写真がある。

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 子犬を抱いた少年兵を囲み、4人の若者がほほ笑んでいる。飛行服に飛行帽、白いマフラーを巻き、首から飛行時計をぶら下げている。飛行帽の上には「必勝」と書かれた日の丸の鉢巻きも見える。

 真ん中で子犬を抱いているのが荒木幸雄伍長で、その真後ろにいるのが高橋峯好伍長。ともに17歳だった。ほかの3人はいずれも18歳の早川勉伍長、千田孝正伍長、高橋要伍長。5人は陸軍少年飛行兵(戦死後少尉)。第72振武(しんぶ)隊員として、沖縄に押し寄せていた米艦隊を撃滅するため、昭和20年5月27日未明、鹿児島県の万世飛行場を出撃し、沖縄近海で特攻を敢行した。

 第72振武隊は当初、5月26日に出撃する予定で、写真は出撃の2時間前に撮影された。ところが、沖縄地方が悪天候のため、急遽(きゅうきょ)、1日延期された。撮影された時点では死が2時間後に迫っていたことになる。

 特攻出撃を間近に控えての笑顔。彼らは何を語り、伝えようとしていたのか。

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 同じ第72振武隊の隊員で移動途中に敵襲に遭い、大やけどを負って特攻作戦に参加できなかった西川信義軍曹は生前、特攻命令を受けたときの気持ちを回顧録にこう書き残している。

 「自分が死んで勝つものならと、死を志した。しかし、特攻隊は出撃したらもう帰って来ない。果たして死ねるだろうか」

 「毎晩のように宴会で飲んで歌って踊って楽しく人生を過ごすかに見えたが、酒の量も増してくると、笑い上戸あり、泣き上戸ありで困った事(こと)もあった」

 「正直のところ死にたくはないのが普通である。ただ、ひたすら国のために体当たりするだけを心掛けて、皆無心になるように勉めた(原文ママ)ものである」

 やすやすと特攻隊を決意できたわけではない。不安と恐怖心にさいなまれながらも、国家のため家族のためにと、気持ちを固めていったのである。

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 「陸軍最後の特攻基地」(東方出版)によると、千田伍長の機付長(整備責任者)だった宮本誠也軍曹は、伍長の父親に宿舎での様子をこう伝えている。

 「5人は自分たちを『朗らか部隊』と名付け、常に歌声を響かせているほど明るくはつらつとしていたといい、全て行動が自信に満ち純で神を見る如(ごと)きだった」

 出撃のため万世飛行場に出発する前夜の千田伍長の様子については「古い手紙やノートを火鉢にくべていました。ちょっと読んでは破いては焼き、何か思い出すように、くすぶる煙を見て居(お)られた。思えば、あと百時間もない命をそれとなく整理されて居られたのでしょう」と語っている。

 「陸軍特別攻撃隊の真実 只一筋に征く」(ザメディアジョン)によると、千田伍長は出撃直前、星空を眺めながら「このきれいな星空も、今夜が見納めだ…略…お袋たちはどうしているかなあ」とつぶやいていたという。

 出撃を控え、早川伍長は「自分が隊長より先に一番機になって突っ込む」と語り、荒木伍長は私物を整理しながら、ハーモニカを宿舎の娘に贈ったという。

 荒木伍長の兄、精一さん(88)は「各務原(かかみがはら)飛行場(岐阜県)で自分の飛行機を特攻機用に爆装するとき、まるで喫茶店にお茶でも飲みに行くような雰囲気だったらしい。出撃を見送ったおばあさんから『最後まで朗らかだった』と聞いた」と話した。

 第72振武隊が編成されたのは20年3月30日。出撃までの約2カ月間、死ぬための訓練を重ね、突撃の時を待っていた。それぞれが、それぞれの思いで、生への執着を絶ち、最期の時を迎えていたのだ。

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 荒木幸雄伍長は昭和18年、海軍飛行予科練習生(予科練)を受験し、健康診断の結果、体調不良で不合格になった。その3カ月後、家族に内緒で陸軍少年飛行兵に挑戦し合格する。

 「航空技術者が夢だった」(兄の精一さん)という荒木伍長は、東京陸軍少年飛行兵学校に入校。操縦科に配属され、福岡県の大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校の甘木(あまぎ)生徒隊などで訓練を受ける。訓練時代から第72振武隊員に選ばれ、特攻出撃するまでの思いを修養録(日記)や手紙に記した。修養録は漢字とカタカナ交じりの簡潔なものだ。

 「この訓練に打ち勝たねば、立派な操縦者になる事は出来ない。この辛(つら)い訓練の後に、故郷の事を思い、何の此(こ)れ位と思い一層奮起せり」(18年11月17日)

 故郷に思いをはせながら少年飛行兵を目指し、自らを鼓舞して、ひたすら訓練に励む少年の姿が浮かぶ。

 昭和天皇の誕生日である19年4月29日の天長節には「明日は忘れもせじ靖国神社の例大祭である。本年も二万柱の先輩の英霊が合祀(ごうし)せられた。此の事を思うと一日一日をのんびりとすごす事が出来ようか。一日も早く立派な操縦者として国家のため尽くす覚悟なり」と自らを戒めた。

 特殊飛行訓練を開始した同年5月20日には「空襲其(そ)のときは第一番に飛び立ち敵機に打(ぶ)つかるの気概と技倆(ぎりょう)とを一日も早く向上せねばならない」と決意を新たにしている。

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 修養録は19年6月20日にいったん途切れる。この間、朝鮮半島で緩降下爆撃や超低空爆撃など実戦に向けての訓練を受けている。

 同年10月、海兵第70期の関行男大尉らによる神風(しんぷう)特別攻撃隊が出撃したことを知ると、父親の丑次さんに「大東亜決戦も熾烈(しれつ)さを加え一大国難に際会致しましたとき特別攻撃隊等の諸先輩に引続き愈々(いよいよ)皇国の為(ため)奮励する覚悟です」とはがきを出した。明らかに特攻を意識した内容だ。

 修養録の再開は20年2月18日。「特攻の精神を以(もっ)て訓練に内務に勉励せん。敵機来らば敢然此の腕を以て此の襲撃機を操縦して敵に体当り(原文ママ)を敢行し潔く散華せん。死生観に透徹し、死して汚名を残さず名誉を後生(こうせい)に残さん」と記した。文言は過激になり、特攻を決意した心境が分かる。

 感受性が強く環境に影響されやすい10代半ばの少年には、戦場で国家のために働く先輩飛行兵の活躍が勇ましく感じたのだろう。戦局の悪化に従って、国家のために前線に行くことを当然と考え、特攻作戦が展開されるようになると、自然に出撃を決心している。

 そして、翌3月31日。荒木伍長は特攻隊の命を受けた。その5日後の4月5日には突然、群馬県桐生市の実家に戻っている。

 精一さんによると、伍長は背筋を伸ばして正座し、落ち着いた声で「大命が下りました。元気で行きますから」と切り出して、家族一人一人の名前が書かれた封筒を渡した。父親には陸軍航空総監賞と刻まれた懐中時計も手渡したという。

 その数日後、精一さんは岐阜県の各務原飛行場に弟を訪ねた。そのときの状況を振り返る。

 荒木伍長は「母ちゃんは体が強くないから大丈夫かなあ」「後のことは頼むよ」と言った後、「俺はもういらないから、母ちゃんに渡して」と十円札を数枚出して、精一さんの手につかませた。精一さんは代わりに「これを持っててくれ」と言って自分の時計を手渡したという。

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 修養録は、佐賀県の目達原(めたばる)陸軍飛行場で待機していた20年5月20日、「明日出撃せよとの有難(ありがた)き命令を受く。只(ただ)感慨無量。一撃轟沈(ごうちん)を期すのみなり。最后(さいご)の秋を朗らかに歌ひ別れの」で終わっている。

 文章の途中で終わっていることに、精一さんは「最後まで書く時間がなかったのか、それとも感極まったのか。弟の気持ちを考えると胸が詰まる」と話す。

 最後の便りは出撃当日の5月27日消印のはがきだ。

 「幸雄も栄ある任務をおび、本日(廿七日)出発致します。必ず大戦果を挙げます。桜咲く九段で会う日を待って居(お)ります。どうぞ御身体を大切に。弟達及隣組の皆様に宜敷(よろし)く。さようなら」

 最後まで、自分の死と引き換えに国家の平和と家族の健康を願っていたことが伝わってくる。

 荒木伍長らは写真の子犬を「チロ」と呼び、「元気を出せ」「大きくなれ」と声をかけていたという。チロを囲む5人の笑顔。その瞬間だけ、彼らの脳裏には数時間後に特攻隊として出撃するという現実が消えていたのだろうか。(編集委員 宮本雅史)

起死回生狙った戦術、6418人戦死

 日本軍の体当たり攻撃は昭和18年5月8日、飛行第11戦隊の隊員がB17に体当たりして撃墜するなど、操縦士自らの意思によって行われた「個人特攻」に始まる。

 戦況悪化の中で起死回生を狙って正式な戦術としての「特攻」に様相を変えたのは19年10月、フィリピン・レイテ沖海戦で、海軍第1航空艦隊の志願者24人が「神風特別攻撃隊」に編成され、爆弾を抱いて敵艦へ体当たり攻撃を仕掛けてから。これを皮切りに、特攻作戦が常態化し、特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、終戦までに6418人が戦死したとされている。

 特攻は、250キロ爆弾や500キロ爆弾を抱えて敵艦に体当たりする航空機特攻のほか、直径1メートル、全長約15メートルの大型魚雷に操縦席を設けた人間魚雷「回天(かいてん)」、モーターボートに爆弾を搭載した水上特攻艇「震洋(しんよう)」、爆弾を積みロケット噴射で滑空して体当たりする「桜花(おうか)」などの兵器も開発、投入された。

 20年4月には、戦艦「大和」を旗艦とする艦隊が沖縄決戦に向かう途上、4隻を除き撃沈された。この出撃は作戦命令に「特攻」と明記されており、これを含めると特攻による戦死者は8千人を上回るとされる。

 昭和20年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸した。以降、多くの若者が沖縄を目指し特攻出撃した。過酷な時代を生き、自らの命を賭けて日本を守ろうとした若者はいかに生き、どう死んでいったのか。残された肉親らの戦後は-。それぞれの思いに迫る。(編集委員 宮本雅史)