産経ニュース for mobile

【秘録金正日(8)】「労働者の忠誠心は高いのですが食べることができず…」に衝撃 食糧配給の途絶 ただ一人知らされなかった〝裸の王様〟

記事詳細

「労働者の忠誠心は高いのですが食べることができず…」に衝撃 食糧配給の途絶 ただ一人知らされなかった〝裸の王様〟

秘録金正日(8)更新

 金日成(キム・イルソン)が最期を迎える1994年7月初頭の動静については、北朝鮮の主席府責任書記(金日成の秘書室長)の全河哲(チョン・ハチョル、後に副首相)が記した日記風の詳細な記録が残されている。

 それによると、経済部門責任者協議会は7月5日から中部の妙香山(ミョヒャンサン)で始まった。実権を握る息子、金正日(ジョンイル)を差し置いて経済政策をてこ入れしようとした会議だ。朝早くから開かれた会議の話題は、電力問題に集中した。「工場や企業所を完全稼働すれば、生産量を3倍にできる。そのためには、電力問題を早く解決しなければならない」。金日成はこう力説したという。

 「原子力発電所建設は時間がかかるからダメだ。(北東部)咸鏡北道(ハムギョンプクド)に30万~50万キロワットの重油発電所を造り、年間85万トン以上の肥料を生産すれば、農業問題、すなわち、食べる問題を解決できる」という趣旨の熱弁も振るった。

「胸が苦しい」

 それは金正日の考えを真っ向から否定するものだった。金正日は、農業問題よりも軍事力増強を優先すべきであり、そのためには、軍事目的に転用できる原子力発電所を造るべきだと主張してきたのだ。

 会議は正午に休会した。金日成は毎日2時間程度昼寝をして体を休める習慣があったが、この日は、昼寝をせずに午後1時10分に全河哲を書斎に呼び付け、「発電所に設置するタービン発電機の価格はいくらか」と聞いた。その後の全河哲の記録には、「夜9時6分、首領様(金日成)は協議会に参加予定の電気技術者はいつ到着するのかを聞かれた」とある。

 7月6日。協議会は再開され、席上、金日成は「社会主義経済建設において新たな革命的転換を起こすことについて」と題する演説を行った。演説で「経済戦略を貫徹するために大事なのは電力の問題、化学肥料、ナイロン、セメント、鋼材、船舶建造問題を解決することだ」と前置きした上で、「しかし」と述べ、幹部らを批判した。

 「問題解決の先頭に立たなければならない幹部たちが事務室(オフィス)に座り、言葉遊びで時間を無駄にしているからダメなのだ」。こうまくし立てる金日成の様子について全河哲は以下のように記す。

 《首領様の顔色はかなり暗く、声もガラガラだった。首領様は胸が苦しいと言われ、左の胸を手でたたかれた。そして副官(秘書)にたばこをもってくるように指示し、『わしは最近、やめていたたばこを吸うようになった』とおっしゃった》

 この場で、「金泳三(ヨンサム、韓国)大統領の共和国(北朝鮮)訪問をわが革命の転換点にしなければならない」とも強調したという。金日成は、史上初となるはずだった南北首脳会談を通して韓国から経済支援を取り付け、疲弊しきった経済の起死回生を狙っていたのだ。

鉄道は通らず

 「首領様は永遠にわれわれとともにおられる」と題した北朝鮮が宣伝用に制作した記録映画に会議の様子が映し出されている。

 金日成は鉄道相に向かって「金泳三大統領は陸路、平壌を訪問する。いつまでなら(南北間の)鉄道をつなげられるか」と尋ねた。答えに窮した鉄道相がもたついていると、「どういうことだ。金泳三が気に入らんのか」とせかした。

 鉄道相「首領様、期日までにレールを敷くことはできそうにありません」

 金日成「なぜだ。朝鮮で私、金日成の指示通りにできないこともあるのか!」

 鉄道相「鉄道をつなげるためには、大勢の人手が必要ですが、なかなか労働者を動員できなくて…」

 金日成「資材や設備が足りないなら、話は分かる。人手が足りないとは、どういうことか」

 言葉に詰まりつつも、鉄道相は、国の実態について「最高指導者」に告げた。

 「首領様、実はいま、国家から配給は途絶えています。いまのところ、平壌市民だけは半月分の配給を受けていますが、地方では食糧のない家がほとんどです…」「労働者たちの党への忠誠心は非常に高いのですが、食べることができないので…」

 金日成はテーブルをたたきつけながら問い詰めた。「配給できないのはいつからなのだ!」

 驚いたのは金日成だけではなかった。金日成の反応に、出席者たちは言葉を失った。北朝鮮でただ一人、「首領」であるはずの金日成だけが配給が途絶えていることさえ知らされていない現実を、公の場でさらすことになったからだ。

 息子にお飾りとしての最高指導者にたてまつられ、誰も真実を告げず、“裸の王様”のような状態に陥っていたのだ。

見せかけの指揮

 翌7日も会議は続いた。記録映画を見る限り、大きな会議場は閑散としていた。幹部らしき数人の後ろ姿と、その前に座って熱弁を振るう、老いと衰えが目立つ金日成の姿が映されているだけだった。

 会議で、金日成は「金正日組織書記同志が軍糧米を出すと約束した。だから、鉄道連結工事は必ず約束期限内に終わらせなければならない」とも告げた。息子の許可なしには、もはや動員する工員向けのコメすら確保できない状況にあったことを物語る。

 会議が終わってからも、よほど突き付けられた現実がショックだったのか、午後10時、咸鏡北道のトップ、道党責任書記を執務室に呼び出して尋ねた。「人民に配給はしているのか」

 党責任書記が「いままでのところ、配給していませんが、配給のできる対策を立てているところです。心配なさらないでください」と杓子(しゃくし)定規に答えると、金日成は怒りをにじませた。

 「君たちは、いつも『心配するな』というが、人民に配給もできないのに心配せずにいられるか。人民の腹をすかさせてはならん」。さらに言葉を継いだ。「(北東部)羅津(ラジン)三角地帯(経済特区)の開発事業を急ぎ、人民の食べる問題を解決しろ」

 金日成がなぜ、一地方の幹部とこんな会話を交わしたかについて、全河哲は説明していない。記録は「人民思い」の金日成が懸命に経済問題の陣頭指揮を執っていた様子をたたえるように書き残すことで、息子に実権を奪われていた事実を巧みに糊塗(こと)している。

 その後に起きた国を揺るがす急変について全河哲はこう記した。

 《雨風が吹き付ける8日明け方2時、敬愛する金日成同志の偉大な心臓はそれ以上の過労に耐えられず鼓動を止めた。胸をたたきながら、首領様を呼んだが、返答はなかった》=敬称略

(龍谷大教授 李相哲)

【プロフィル】李相哲(り・そうてつ)

 龍谷大学社会学部教授。1959年、中国黒竜江省生まれ。両親は朝鮮半島出身。中国で新聞記者をへて87年に来日。上智大学大学院博士課程修了(新聞学博士)。韓国政府関係者や脱北した北朝鮮元高官とパイプを持ち、北朝鮮の政情分析に定評がある。著書に『金正日と金正恩の正体』(文春新書)、『朴槿恵の挑戦』(中央公論新社)。テレビのコメンテーターとしても活躍。日本国籍。