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【話の肖像画】歌手・郷ひろみ(65)(13)生みの親はジャニーさん

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アイドルとして多忙を極めた昭和50年ごろ
アイドルとして多忙を極めた昭和50年ごろ

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 《芸名「郷ひろみ」はいきなりステージに上げられた北海道・旭川のイベント会場で自然発生的にかけられた「レッツゴーひろみ!」という声援から、ジャニー喜多川さんが即決した。そして始まった特別待遇…》

 (ジャニーズ事務所の所属タレントが住む)寮にはお手伝いさんがいたんです。しかしある日、ジャニーさんが「今日からひろみと僕の食事は一緒だから」って。他の寮生たちはトーストと目玉焼きなのに、僕だけジャニーさんと一緒でオートミール、ミューズリー(シリアル食品の一種)など。ナニ、これ? これまで見たこともない食べ物で、朝から食生活が一気に変わった。豪華になったんです。(他の寮生はみんな先輩で特別待遇は)内心は嫌だったけど、それがジャニーさんのやり方なんでしょうね。今思えば「この食事に合うような人間になれ」という、僕へのメッセージだったかもしれないという気がしています。

 でも褒められたことは一度もなかった。ものすごく厳しかった。毎回毎回、ダメ出しです。「立っている姿が違う」「目線が違う」とすごくうるさかった。「リズムを取るな」とも言われました。バラードを歌うとき、指先やつま先でリズムを取っていると「そんなことするのはアマチュアだよ、ひろみ。心の中で取るんだよ」。ステージ上では歩いている姿、下がるとき、出るときのスピード…。歌うときは「2階を見なさい。大きく見えるからね。2階を見て『こんにちは』といえば、たとえ2階に人がいなくても1階のみんなが『こんにちは』と言ってくれる」とか。2階を見て声を出すと(発声で大事な要素の)「横隔膜が開く」と後になってわかる。すべての言葉に意味があった。父親のように厳しかったけど、愛情があるからこそだったと、今になったらわかる。“三つ子の魂百まで”といいますが、今でも僕の中ではそういうことが、体に染みついているんです。

 《昭和50年3月末日、ジャニーズ事務所と契約終了。大手事務所の誘いもあったが、発足して間もないバーニングプロダクションへ移籍する。当時のスポーツ紙によると、半年前の49年10月30日付で父、英夫さんは「過密スケジュールで学業優先が守られていない」などを理由とした、退所意思を表明した正式文書をジャニーズ事務所に送付していた。自身にとって、そこにはすでに芽生えていた“変化にしか、成長がない”という哲学があったようだ》

 今思うに当時、僕自身、たぶん次のステップに向かう時期だったんだと思うんです。「もっとやりたい」という思い。同じ所に身を置くより、違うところで自分を成長させたい、と思ったんでしょうね。

 10代から20代になった頃で、やみくもに走っていた。心にも余裕がなかったし、そのうち時間が過ぎてしまった。(移籍後、ジャニーさんとは)何かの番組の楽屋でお会いして「こんにちは」とあいさつを交わしたことはありましたが、改まってお会いすることはなかったです。(令和元年6月に)倒れられたという話を聞いたときは何とかお見舞いに行きたかったんですが、残念ながらかないませんでした。でも今でもはっきりといえるのは「ジャニー喜多川は郷ひろみの生みの親」だということです。それは絶対に間違いないことです。

 《ジャニー喜多川さんは令和元年7月9日、くも膜下出血のため死去。享年87。同年9月4日、東京ドームでの「お別れの会」には参列した》(聞き手 清水満)

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