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【本郷和人の日本史ナナメ読み】再考「鎖国はなかった」論(下)膨大な唐物(からもの)はどこから?

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堀尾忠晴像(模本、東大史料編纂所蔵)
堀尾忠晴像(模本、東大史料編纂所蔵)

 ぼくは長いこと放送大学で日本中世史の番組作りに参加させていただいています。恩師の五味文彦先生にチャンスをいただいたのが1993年。もう四半世紀も前のこと。一番初めに講師として収録に臨んだときはラジオで、ガラスの向こうにディレクターがいるほかはアシスタントもスタッフも、誰もいない。マイクが1本ぶら下がっているだけ。そんな何の反応も期待できない中、42分半から43分で南北朝時代について講義せよと言われたのです。

 ディレクターに「3、2、1、ハイ!」と合図されたときは、お恥ずかしい話ですが、緊張のあまり足がガタガタ震えました。いま大学はいとも簡単に「コロナ感染を防ぐため、リモートで授業してください」と求めてきますが、甘いとしか言いようがない。リモートで学生に「聞かせる」授業、評価に値する良質な授業がすぐに実施できる教員なんて、そんなにいないと思います。

 ラジオの次にテレビで番組を製作することになり、では聴講生の皆さんに面白い映像を届けよう。それで五味先生とスタッフのみなさんといろいろなところを回りました。五味先生の講義つき(もちろん、無料。なんとぜいたくな!)で新しい発掘の成果などを見学する。これは本当に勉強になったし、面白かった。その中で、島根県安来(やすぎ)市の月山富田(がっさんとだ)城に行きました。この山城は山陰地方に覇を唱えた戦国大名・尼子(あまご)氏(元は守護大名・京極氏の守護代だった)の本拠地で、尼子氏が毛利氏に滅ぼされると毛利一門の吉川元春の城となり、その子の広家の時代には俸禄が12万石。関ケ原の後は堀尾吉晴が入城(24万石)。堀尾氏は松江に築城して移り、城としての役目を終えます。

 江戸時代前期の1666年、富田川が氾濫し、富田城下に形成された広瀬の町は水没しました。それで、いま発掘してみると、多くの遺物が出土する。その中には青花・青磁・白磁といった中国の焼き物が含まれていました。白磁のお皿には、中国で焼かれたものであるのに「天文」と日本の年号の銘があります。わざわざ注文して、焼いてもらったのではないか、という解釈がなされています。これらを見ると、少なくとも戦国大名・尼子家の上級家臣(有名な山中鹿介(しかのすけ)はその一人)たちは、唐物を日常的に使っていたことが分かります。室町時代は唐物好きの時代なんだねえ、と五味先生が確認するようにおっしゃったのを、今でもよく覚えています。

 さて、その場はそれで納得したのですが、後年、海禁政策のことを知って、不思議に思うようになりました。日本の室町時代に対応する中国の王朝は「明」ですが、この国は国の王様とのみ「朝貢」のかたちで交流をしていた。A国の国王が明の皇帝にご機嫌伺いの使者を派遣する。そのとき、A国国王は明の皇帝に貢ぎ物を差し出し、臣下として振る舞います。すると明の皇帝はA国使者に、よくぞはるばる明の徳を慕ってやってまいった、とお褒めの言葉を賜り、使者の交通費をすべて負担し、貢ぎ物に十倍する品物を送ります。つまり、家臣扱いされることに耐えられるなら、A国にとってはものすごくお得な交流になる。ですのでこれを、「朝貢貿易」と言ったりします。

 もう少し厳密に言うならば、朝貢した国は明など中国王朝から「冊封(さくほう)」されます。中国皇帝の家臣となることを冊封といい、冊封された国は貢賦(こうふ)(貢献物)と版籍(地図と戸籍)を毎年進上しなければなりません。版籍奉還という明治初年の政策の「版籍」はここで用いられた言葉です。また冊封された国は中国王朝の元号と暦を用いねばなりません。けれども明の時代には、この原則は厳守されていたわけではないようです。日本の足利義満は「臣 源道義」として皇帝の家臣として振る舞い、交流を行いましたが、元号と暦を用いることはありませんでした。

 明の皇帝は限られた者としか、会見しませんでした。その国の王様、王様の使者とのみやりとりをしたのです。その他の者とは意思の疎通を拒絶しましたし、交易も認めなかった。いうなれば、経済的には原則、国を閉ざしていたのです。それが「海禁」政策というものになります。

 さて、ここでクイズです。日本から明に派遣される船のことを遣明船と呼びましたが、この明国公認、また、交易を独占していた遣明船。室町時代を通じて、何回くらい明に渡航していたでしょうか? …実は15回なのです。幕府の権威が低下し、幕府の代わりに大内氏もしくは細川氏が派遣したのが6回。あわせても21回。これがすべて。

 ここで、ぼくは疑問をもたざるを得ません。あれ?尼子氏の上級家臣も唐物を日常使いしていたんだよね。大名の尼子氏本人ならともかく、上級とはいえ、その家臣に行き渡るほどの唐物、たった21回行き来しただけの交易船でもってこられるものなのかな? とてもムリじゃないのかな。室町時代が唐物好きな時代というのは了解したけれども、人々の需要を満たすだけの唐物は、いったいどこからやってきたのだろう?

 次回は2月4日掲載予定です。

【用語解説】松江の礎築いた堀尾忠晴

 1599~1633年。堀尾氏が居城を月山富田城から松江城に移したときの藩主。堀尾吉晴の孫に当たる。吉晴は早くから羽柴秀吉に仕えて功績があり、佐和山城4万石を領し、豊臣秀次を支えた。徳川家康が関東に移ると、浜松12万石を得た。秀吉死後は家康に接近し、堀尾氏は関ケ原では東軍として戦う。その功により、出雲の国主となった。ただし、吉晴の子の忠氏は早く亡くなり、若年の忠晴が藩主に任じ、祖父の吉晴の補佐を受けた。だが、忠晴は後継者なく病死し、大名としての堀尾氏は断絶した。画に忠晴とともに描かれているのは松村監物という人物で、堀尾氏の家臣。忠晴の没後、殉死したそうだ。

                   ◇

【プロフィル】本郷和人

 ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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