PR

【本郷和人の日本史ナナメ読み】日本史学と実証主義(上)「物語」めぐり明治に大論争

PR

第12師団軍医部長として小倉に赴任する森鴎外 =明治32年(国立国会図書館蔵)
第12師団軍医部長として小倉に赴任する森鴎外 =明治32年(国立国会図書館蔵)

 先月、日本史編纂(へんさん)事業における重野安繹(やすつぐ)(1827~1910年)と川田剛(甕江(おうこう))の対立に言及しました。重野という人は、もと薩摩藩士。国元で漢学を修めた後、22歳で全国の秀才が集まる江戸の昌平黌(しょうへいこう)に入学、安井息軒(そっけん)(1799~1876年)の教えを受けました。1857年に薩摩に帰国したところ、同僚の金の使い込みによって奄美大島に遠島処分に。ところが禍福はあざなえる縄の如(ごと)し、ここで同じく遠島に処せられていた西郷隆盛と出会い、知遇を得たのです。

 ここでちょっと脱線。重野の師である安井は宮崎の人で、近代漢学の祖といわれた大学者です。その名言に「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり」。だから若者よ、勉強せよ、というわけで、門下からは陸奥宗光・品川弥二郎ら政治家、谷干城(たてき)・明石元二郎ら軍人など、多くの逸材を輩出しています。

 森鴎外の『安井夫人』は、息軒と彼の奥さんの佐代さんを描いた史伝(フィクションをできるだけしりぞけた歴史小説のこと)。息軒は子供のころに天然痘にかかり、そのため片目がつぶれ、疱瘡(ほうそう)痕が顔一面に残る醜い容貌になってしまいました。結婚の話が出たときに、妻候補だった女性はその容姿ゆえに嫁入りを拒否したのですが、美人で知られた妹のお佐代さんがすすんで息軒の妻となり、2人は子宝にも恵まれ、静かに添い遂げたのです。

 鴎外がこの作品を創作した大正3年といえば、平塚らいてう(本コラムで次回かな? 少しだけ登場予定)らの女権運動が盛り上がっていた時期(『青鞜(せいとう)』の発刊が明治44年)でした。鴎外はらいてうの説く「新しい女」、自我を強く持ち、自立する女性像を支持していたと思われますが、良き妻・良き母として生きるお佐代さんを共感をこめて描きながら、「新しい女」はなにも奔放な生き方でのみ語られるものではない、と主張したかったのではないでしょうか。

 さて、話は重野に戻ります。幕末、重野の見せ場は薩英戦争後のイギリスとの交渉でした。巨額の賠償を求めるイギリス相手に堂々と渡り合い、薩摩藩の利益を守り通したのです。新政府が成立すると、人々は外交官としての活躍を期待しましたが、重野は学問を選択しました。そして日本の歴史の編纂に取り組んだのです。

 重野が重視したのは、要するに「実証」ということでした。当時、人気のあった歴史資料といえば楠木正成が大活躍する『太平記』でしたが、『太平記』は基本的に物語であるからその叙述をすぐさま歴史事実として取り入れることはできない、古文書や日記など他の資料で「ウラの取れない」ものは新しい日本史の叙述には採用しない、と主張したのです。

 たとえば、児島高徳(たかのり)。後醍醐天皇は1331年に倒幕の挙兵に失敗し(元弘の変)、隠岐へ流されます。『太平記』によれば、その途中、美作(みまさか)守護館(岡山県津山市)に潜入した児島高徳という武士が「天莫空勾践 時非無范蠡」(天勾践(こうせん)を空(むな)しうする莫(なか)れ、時に范蠡(はんれい)無きにしも非ず。意味は長くなるので略。興味のある方は「呉越の戦い」で検索してください)と木の幹に書き記し、天皇を喜ばせた、といいます。(ちなみに戦前はこのエピソードを知らぬ者はなく、大正3年には、文部省唱歌「児島高徳」が作られました。本郷和人少年は小学生の時に母親からこの歌を習いましたので、今でもさびの部分は歌えます)

 ところが重野は、児島の活動を示す他の文書などが全くないことから、児島は『太平記』が創作した人物であると断じました(こうしたことを他でも行ったので、重野には「抹殺博士」のあだ名が献じられた)。同様に、楠木正成と子息の正行(まさつら)の「桜井の駅の別れ」もフィクションであるとしました。これに対し川田は、そんなことをしたら日本人の精神が枯渇してしまう、と反論。物語も正式な歴史に生かすことを力説したのです。

 こうして起きたのが、重野と川田の大論争でした。重野の背後には薩摩があります。川田はどうやら長州の支持を受ける立ち位置にいたようです(ここ、もう少し丁寧な確認が必要。時間をかけて調べます)。重野に賛同したのが、久米邦武(くにたけ)、星野恒(ひさし)。川田に賛同したのが依田学海(よだ・がっかい)(森鴎外や幸田露伴の師。鴎外の『ヰタ・セクスアリス』では主人公に漢文を教える「文淵(ぶんえん)先生」として登場)。結果、重野が勝利して、日本史というと実証主義の牙城になったのです。(次週に続く)

                   ◇

【プロフィル】本郷和人

 ほんごう・かずと 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

                   ◇

【用語解説】森鴎外

 1862~1922年。泣く子も黙る文豪かつ陸軍軍医総監。2つの分野でトップになるなんて、とんでもない才能だと驚嘆する。だが、軍医総監は中将相当なので、軍のトップにはなれず、そのことにコンプレックスを抱いていたともいう。墓碑にさまざまな栄典を書かず、「石見人 森林太郎」とのみ記せと遺言したのは有名だが、これも男爵になれなかった腹いせという説もある。本当のところはどうなのだろう。

この記事を共有する

おすすめ情報