PR

【ゴッホ展】オランダからフランスへ ゴッホの足跡をたどる旅

PR

ゴッホが入院したサン=レミの療養院の入口。門の奥で真っ直ぐそびえるのが糸杉だ(藤井沙織撮影)
ゴッホが入院したサン=レミの療養院の入口。門の奥で真っ直ぐそびえるのが糸杉だ(藤井沙織撮影)
その他の写真を見る(1/5枚)

 フィンセント・ファン・ゴッホの画業をたどる「ゴッホ展」(産経新聞社など主催)が25日、兵庫県立美術館(神戸市中央区)で始まった。世界中の美術ファンを魅了するゴッホだが、生前に評価されることはなく、37歳で自ら閉じた生涯は、深い孤独や苦悩とともにあった。その繊細な内面に触れるべく、オランダ、フランスで彼の足跡をたどった。(藤井沙織)

■ズンデルト

 ゴッホは1853年3月30日、ズンデルトというオランダ南部の村に生まれ、少年期までを過ごした。村の中心には、牧師の父親が赴任したプロテスタントの小さな教会が残る。昔も今も、村人の大半はカトリック教徒だ。

 隣接する墓地で、ゴッホの兄のお墓を見つけた。四角い墓石に刻まれた名前は「フィンセント」。両親は、ゴッホが生まれるちょうど1年前の3月30日に死産した兄の名前を、ゴッホに与えたのだ。幼い少年はどんな思いで、このお墓を見つめていたのだろうか。

 気性が激しくかんしゃく持ちのゴッホだったが、4歳年下の弟、テオとは仲が良かった。テオは生涯、ゴッホを経済的、精神的に支えた。

 《16歳で美術商に勤務したが、失恋を機に勤務態度が悪化し、23歳で解雇された。牧師を志すも試験に挫折し、その後に就いた伝道の仕事も、自身の衣服を貧者に与えるなど行き過ぎた活動で罷免。27歳で画家になると決意し、オランダ各地を一人、転々とする》

フィンセント・ファン・ゴッホ《麦畑》 1888年6月 油彩・カンヴァス 50×61cm P.&N.デ・ブール財団(C)P.&N.de Boer Foundation
フィンセント・ファン・ゴッホ《麦畑》 1888年6月 油彩・カンヴァス 50×61cm P.&N.デ・ブール財団(C)P.&N.de Boer Foundation
その他の写真を見る(2/5枚)

■ニューネン

 両親との関係が良好ではないゴッホだったが、30歳のときに親元に戻り、ニューネンで2年を過ごした。

 ここにも、父親の勤めた教会が木立に囲まれて残る。一家の暮らした窓の大きな家には、今も人が暮らしている。古い街並みに往時の面影を感じられる、静かな村だ。

ゴッホが作品の題材としたアルルの麦畑。空の青と、穂波の黄金が鮮やかに対比する(藤井沙織撮影)
ゴッホが作品の題材としたアルルの麦畑。空の青と、穂波の黄金が鮮やかに対比する(藤井沙織撮影)
その他の写真を見る(3/5枚)

 ゴッホはここで、よく機を織る人を描いた。ニューネンは砂地のため農業に適さず、機織りが主な産業という貧しい村だった。ゴッホは人々の厳しい暮らしを見つめ続け、初期の代表作「ジャガイモを食べる人々」を完成させた。

 《32歳のとき、パリで勤めるテオのもとに転がり込む。当時のパリの画壇は印象派に沸いていた。ゴッホはカミーユ・ピサロやポール・ゴーギャンらと交流しながら、印象派の技法を取り入れていった。だが次第にパリ暮らしがストレスになり、わずか2年で南仏のアルルへと向かった》

■アルル

 空の青が深い。強烈な日差しが、目に映るものの色と輪郭を強調する。ゴッホがアルルに求めたのは、明るい色彩を生み出すこの陽光だった。歓喜に沸くように、「麦畑」や「ひまわり」など名作を次々と描き上げていく。「夜のカフェテラス」の舞台は多くの観光客らでにぎわっていた。

 ゴッホの生涯で、この頃が一番穏やかで幸せな時期だったかもしれない。その後、自ら望んだゴーギャンとの共同生活の中で精神的に不安定になり、左耳を切り落としてしまう。1年でアルルを後にし、サン=レミにあるサン=ポール・ド・モーゾール修道院付属の精神療養院に入った。

■サン=レミからオワーズへ

 ゴッホが入院した施設は現役の病院だが、一部が観光客に開放されている。再現されたゴッホの病室の壁は灰色で、簡素なベッドがあった。鉄格子のはまる窓から外をのぞくと、脱走を防ぐための塀が視界を横切っていた。

 ゴッホは入院中も絵を描き続けた。窓越しの風景や病院の庭。体調の良いときには、塀の外に出ることも許された。この頃のゴッホが繰り返し描いたのが、空へと真っすぐに伸びる糸杉だ。今も、果樹園や墓地の防風林として使われている。その均整のとれた木立を眺めていると、ゴウッと強い風が吹き、糸杉の枝葉がざわりと揺れた。このミストラルと呼ばれる北風が雲を吹き飛ばし、南仏の青空をつくるそうだ。

オーヴェール=シュル=オワーズにあるゴッホとテオのお墓。ツタは、ゴッホの主治医の庭にあったものが植えられた(藤井沙織撮影)
オーヴェール=シュル=オワーズにあるゴッホとテオのお墓。ツタは、ゴッホの主治医の庭にあったものが植えられた(藤井沙織撮影)
その他の写真を見る(4/5枚)

 《1年間の入院の後、ゴッホはつてを頼り、芸術好きの医師のいるオーヴェール=シュル=オワーズに移った》

 ゴッホが下宿したレストラン「ラヴー亭」は、村の中心部にあった。そこから古い家並みを抜け、坂道を登りきると、地平線まで続く麦畑にたどり着いた。1890年7月27日、ゴッホはこの辺りで、自分の胸に向けて拳銃を撃ったとされる。重傷を負って下宿先に戻り、知らせを受けて駆けつけたテオに看取られ、29日未明に37歳で息を引き取った。この地で暮らし始めてから、約2カ月後の出来事だった。

 丘の上の墓地に、ゴッホとテオが並んで眠る。テオはゴッホの死の1年後に亡くなり、妻の意向でここに改葬された。お墓には、ゴッホのファンによってヒマワリやバラが手向けられていた。

【協力】

■KLMオランダ航空( https://www.klm.com/home/jp/ja

■オランダ政府観光局( https://www.holland.com/jp/

■プロヴァンス地方観光局( https://provence-alpes-cotedazur.com/

■パリ地方観光局( https://www.visitparisregion.com/

■フランス観光開発機構( https://jp.france.fr/ja

ニューネンにある、ゴッホの父親が勤めた小さな教会。当時のゴッホが作品に描いたままの姿で残っている(藤井沙織撮影)
ニューネンにある、ゴッホの父親が勤めた小さな教会。当時のゴッホが作品に描いたままの姿で残っている(藤井沙織撮影)
その他の写真を見る(5/5枚)

この記事を共有する

おすすめ情報