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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」12 幻の武将像? 東と西の縁結ぶ

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素鵞神社に保存されている陶器製の武者像
素鵞神社に保存されている陶器製の武者像
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 茨城県那珂(なか)市瓜連(うりづら)にある素鵞(そが)神社から、南北朝時代の武将、楠木正家(まさいえ)とみられる陶器製の立像が発見されたのは平成29年の秋。正家は楠木正成(まさしげ)の親族とされ、南朝方として瓜連城を拠点に、北朝方の佐竹一族と死闘を繰り広げた人物だ。極端に史料が少なく「幻の武将」とされる。

 西野則史宮司が、東日本大震災で傾いた社殿を修繕するため宝物を整理していたところ、牛頭(ごず)天王像や奉納鏡に交じって、高さと幅が約25センチ、奥行き約20センチの見慣れない木箱に気付いた。木箱の前蓋(ふた)には墨で「楠正家郷」と記されており、侍(さむらい)烏帽子(えぼし)に直垂姿(ひたたれすがた)で左腰に太刀を帯び、左手に矢立てを、欠け落ちた右手には筆か鏃(やじり)のようなものを握った陶器製の武者像が収められていた。西野宮司は「うちが祭っているのは素戔嗚命(すさのおのみこと)。なぜ正家像が、と驚きました」と振り返る。

 正家について、『大日本史』はこう記す。

 <蔵人(くろうど)と為り、左近衛将監(さこんえのしょうげん)に任ぜらる。延元元年、正成に代り兵を将(い)ゐて常陸に赴き、瓜連の地に城(き)きて…(中略)…後正行(まさつら)と倶(とも)に高師直(こうのもろなお)を四條畷(しじょうなわて)に拒(ふせ)ぎ、克(か)たずして之に死す>

 正家は、後醍醐天皇による「建武の中興」が足利尊氏の反旗によって崩れた延元元(1336)年2月、瓜連に派遣された。瓜連は尊氏の出身地・下野(しもつけ)(栃木県)に近く、さらに南朝の勢力が強い陸奥国(むつのくに)(東北地方)への入り口という要衝地だ。この地を重視した後醍醐天皇は正成を配置し、正成は重用していた正家を代官として派遣した。

 足利優勢の北関東で正家は孤軍奮闘したが、瓜連城は陥落。その後は正成の嫡男、正行と合流して正平3(1348)年の「四條畷の戦い」でともに散った。史料やゆかりのものはほとんどなく、その実像は謎に包まれたままだ。

 正家像と思われた武者像に転機が訪れたのは、発見から2年後の令和元年夏。きっかけは台座部分に張り付けられた紙片だ。

 その紙片には楠木一族の「菊水の紋」の朱印と、黒い文字で「四條畷神社」(大阪府四條畷市)と押印されており、発見当初から四條畷神社が創建された明治23年以降に作られた像と思われていた。

 四條畷神社は正行を主祭神に、同地で殉死した正家を含む24人を祭っており、さらに武者像は飯盛山(いいもりやま)山頂(大阪府大東市)や河内往生院(大阪府東大阪市)の「楠正行像」にデザインが酷似している。那珂市歴史民俗資料館の仲田昭一館長は「正家像であれば貴重ですが、四條畷神社かその奉賛会で制作されたものであれば、正行の像かもしれないと思いました」と語る。

 武者像は誰なのか。西野宮司は昨夏、武者像の写真とともに四條畷神社を訪れた。「四條畷楠正行の会」の扇谷昭代表は「正家にしては若々しい。陶器ということは1つだけ作られたものではないでしょう。型によって複数作られ、関係者に配られたものではないでしょうか」との意見だった。

 「複数製造による正行像」の可能性が浮上した一方、同型の陶器製像は楠木一族ゆかりの四條畷神社や正成を祭る湊川神社(神戸市中央区)で見つかっていない。

 正行なのか正家なのか。真相解明は今後に委ねられるが、正成が活躍した畿内から離れた異郷の瓜連で発見された武者像が、交流のなかった四條畷神社と素鵞神社を結び付けた。

 正家が瓜連城に入った延元元年は南朝、北朝の勢力がめまぐるしく入れ替わる激動の年だった。1月には京合戦で南朝方に敗れた尊氏が九州まで落ち延びた。当時は優勢だった南朝だが、正成の献策を公家たちが受け入れず、立ち直った足利軍に東上を許し、さらに5月には湊川で正成が敗死して形勢が大きく変わる。11月には尊氏が室町幕府を開き、多くの武士が足利方の北朝につき始めた。

 こうした情勢のなか、正家は正成・正行と同様、不利になっても最後まで南朝方として戦い続け、実態不明の武将ながら、大正4(1915)年に正四位が贈られた。仲田館長は「勤王を貫き、正行とともに戦死した正家が顕彰されたとしても不思議ではない」と語る。

 正家が修繕した瓜連城には堀と土塁の施された特徴的な構築や抜け穴の存在など、正成が戦った赤坂城や千早城に共通するような仕掛けがあったとの論文もある。正家についての研究は続いており、今回の武者像への関心も高まっている。

 「『西の正成・正行父子』に並ぶ『東の正家』として、その忠誠を貫いた生き方への憧れは今でも生き続けています」と西野宮司。素鵞神社の武者像は、令和の時代にも伝わる正家の忠義の思いをよみがえらせた。=毎週金曜掲載

■素鵞(そが)神社

 平安時代初期の大同元(806)年の創建とされる。祭神は素戔嗚命(すさのおのみこと)で、インドの祇園精舎の守り神とされる「牛頭天王」と習合して疫病を封じる神としても信仰される。永禄2(1559)年に佐竹義昭が修営し、現在の社殿は天明8(1788)年に再興されたもので、明治18(1885)年に拝殿が修繕された。

 素鵞神社のある旧瓜連城は、久慈(くじ)川沿いの低地を望む台地の北端に築かれ、現存する多くの土塁の遺構を外郭と考えると、東西南北それぞれ700メートルほどの大規模な城と推定される。標高差約20メートルの急な崖となる北東部分には土塁が二段で構築され、随所に小さな出丸(武者溜(だ)まり)があった。楠木正家による本丸跡は現在の常福寺境内とみられる。

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