PR

【教科書が教えない 幻の堺幕府】嫉妬、疑心、裏切り…連合政権、崩壊前夜の人間模様

PR

 京都に近く、日明貿易などで経済的にも潤っている堺に拠点を置いた足利義維(よしつな)と細川晴元、三好元長。この事実上の中央政権はわずか5年で幕を閉じることになる。その原因は、よくある話だが、「内紛」だった。功労者・元長に対する嫉妬と疑心、そして裏切り…。「堺幕府」崩壊前夜の人間模様に迫りたい。(古野英明)

潜んでいた崩壊の芽

 大永7(1527)年、室町幕府第12代将軍・足利義晴と管領(かんれい)・細川高国らが京都から近江(滋賀県)に逃れ、もぬけの殻同然となった京都に代わり、堺に事実上の幕府が機能することになった。義晴の兄弟で、近い将来に征夷大将軍になる者が就くポスト「左馬頭(さまのかみ)」に任ぜられた義維がトップ、高国の義理の甥(おい)で、阿波細川家出身の晴元がナンバー2、そして阿波細川家の家臣で軍司令官を担う元長がナンバー3という陣容だった。

 当時の権力構造は複雑だった。応仁元(1467)年の応仁の乱以降の混乱で足利将軍家は弱体化し、将軍を補佐する管領が実権を掌握。斯波(しば)、細川、畠山の「三管領」の中でも、細川家が確固たる地位を築いていた。

その他の写真を見る(1/3枚)

 こうしたことから、「堺幕府」の実権は事実上の管領である晴元にあってしかるべきところだったが、大永7年当時、晴元は10代前半とまだ若く、事実上の将軍・義維も10代後半。20代の元長が主導権を握っていたとされる。

 なぜ家臣風情(ふぜい)に牛耳られなければならないのか-。ここに「堺幕府」崩壊の芽のひとつが潜んでいた。

「管領」晴元への讒言

 もう一つの芽は、この政権が畿内の有力武将らとの同盟抜きでは支えきれない脆弱(ぜいじゃく)な連合政権であったことだ。

 阿波の軍勢だけでは畿内を制圧できないことから、元長らは丹波(京都府中西部)の柳本賢治、摂津(大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)の茨木長隆(ながたか)、河内(大阪府東部)の木沢長政らと手を結んだ。彼らの政権内の位置づけは、元長と同格のはずだった。

細川高国が切腹した場所であることを示す「大物くづれ戦跡」の石碑。この場所にはかつて広徳寺があったという=兵庫県尼崎市
細川高国が切腹した場所であることを示す「大物くづれ戦跡」の石碑。この場所にはかつて広徳寺があったという=兵庫県尼崎市
その他の写真を見る(2/3枚)

 ところが元長は大永8(1528)年、京都のおひざ元である最重要地・山城の守護代(しゅごだい)におさまってしまう。これをおもしろく思わない柳本賢治が、晴元にあることないことを吹き込んだのだ。

 16世紀前半の畿内の戦乱を描いた軍記物「細川両家記」は、堺に晴元を訪ねた柳本賢治が「元長の儀色々讒言(ざんげん)申されける」と記している。元長が高国と和睦(わぼく)を結ぼうと動いており、晴元をないがしろにしようとしている-と告げたのである。若い晴元はこれを信じてしまい、以降、元長に猜疑心(さいぎしん)を抱くように。その後、元長が申し開きに訪れても、晴元は聞く耳を持たなかったという。

 さらに、柳本賢治には三好一族の三好政長も同調したと「細川両家記」は伝えている。

 「堺にいても仕方ない」と嫌気がさした元長は享禄2(1529)年、三好一族の本拠地・阿波へ戻る。代わって政長が晴元の後見となり、畿内の三好軍勢を指揮するようになった。

阪神・尼崎駅近くに移された現在の広徳寺。豊臣秀吉ゆかりの寺としても知られている=兵庫県尼崎市
阪神・尼崎駅近くに移された現在の広徳寺。豊臣秀吉ゆかりの寺としても知られている=兵庫県尼崎市
その他の写真を見る(3/3枚)

大物崩れ、高国死す

 堺政権内の内輪もめを見てほくそ笑んだのは、京都を追われ、室町幕府再興を虎視眈々と狙っていた管領・高国である。翌年、援軍を得た高国は三木城(兵庫県三木市)にいた柳本賢治を暗殺。堺方との戦いで高国は優勢を保った。

 このあたりの情勢は「細川両家記」に詳しい。晴元はたまらず阿波にいる元長に戻ってくるよう要請。享禄4(1531)年2月に元長が船で堺に上陸、3月には8千の阿波兵も到着した。以降、形勢は逆転し、堺方は天王寺(大阪市)の戦い、大物(兵庫県尼崎市)の戦いなどで高国方を撃破した。

 同年6月、高国は京屋という藍染屋に隠れたが見つかり、大物の広徳寺で切腹した。室町幕府方の実力者が果てたこの出来事は「大物崩(だいもつくず)れ」と呼ばれ、広徳寺がもとあった場所、尼崎市の阪神・大物駅近くの公園に「大物くづれ戦跡」と刻まれた石碑と案内板が立っている。

安泰かと思われたが…

 元長は再び堺の中枢に戻った。細川家の内部抗争も晴元の勝利に終わり、「堺幕府」体制はいよいよ盤石になったかと思われた。

 ところが、晴元の元長に対する疑心は晴れず、さらに元長の強大化を喜ばない摂津の茨木長隆や河内の木沢長政らの反目もあって、政権内は相変わらずバラバラだった。特に木沢長政は柳本賢治と同様、晴元に元長を中傷する発言をした。

 天文元(1532)年正月、元長の部下、三好一秀が京都の三条城に柳本賢治の子を攻め、討つという事件が起きた。晴元の怒りを恐れた元長は剃髪(ていはつ)して恭順の意を示したが、もはや動き始めた歯車は止まらず、「堺幕府」は終焉(しゅうえん)へと向かうのである。

この記事を共有する

おすすめ情報