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【歴史シアター】阪神大震災400年前“前兆”慶長伏見地震と野島断層 神戸・須磨寺

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慶長伏見地震、阪神大震災と直下型地震に見舞われた須磨寺 =神戸市須磨区
慶長伏見地震、阪神大震災と直下型地震に見舞われた須磨寺 =神戸市須磨区
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 5万人を超す死者・負傷者、64万棟もの建物被害を出した阪神大震災は発生から25年になった。淡路島から神戸市にかけて延びる野島断層が引き起こした震災は神社仏閣にも大きな被害を出したが、その一つが真言宗須磨寺派大本山・須磨寺(神戸市須磨区)。ここは400年前に起きた巨大地震にも見舞われ、壊滅的な被害を受けていた。その原因は野島断層近くを走る別の活断層が引き起こした揺れだったことが分かってきた。この時、動かなかった野島断層が、長い時を経て鳴動したのが阪神大震災だった。(編集委員・上坂徹)

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◆「死人不知数」

 「夜半の大地震で本堂・三重宝塔・権現(ごんげん)が、地形(じぎょう)(建物の基礎)とともに崩れ、宝塔の九輪の屋根が蓮池にまで飛び…東国より来た西国巡礼150人が宿泊しており、頭、足、手を負傷した。圧死者のうち2人は跡形もなかった…兵庫も一間残らず崩れ、出火し、死者は数知れない」。須磨寺に残る歴代住職の記録「当山歴代」にある文禄5・慶長元(1596)年に起きた地震(慶長伏見地震)の記述だ。堂塔の崩落だけでなく、門前の町家も崩れて、多くの死者を出していた。

 この地震の被害は須磨寺周辺だけではなく、大阪、京都、兵庫、和歌山の広い範囲にわたっていた。当時の最高権力者だった豊臣秀吉が指月(しげつ)(京都市伏見区桃山町泰長老)に隠居先として築いた伏見城では、天守閣の半分が崩れ落ち、二の丸の崩落によって、女房衆約300人が亡くなっている。城のすぐ西側に建っていた徳川家康の屋敷も、2階が崩れて10人以上が死亡。周辺の町家では1000人以上が犠牲になっている。京都の寺院関係では、東寺や大覚寺、天龍寺が倒壊し、秀吉によって建立された方広寺の大仏も崩れ落ちた。

 大阪や堺では、町家の多くが破壊されて、「死人不知数」(言経(ときつね)卿記=安土桃山時代の公家、山科言経の日記)と、大きな被害が記録されている。

 一方、阪神大震災で須磨寺は、塔頭の桜寿院や蓮生院の本堂が倒壊したほか、本堂、護摩堂、客殿、納骨堂を破損するなど、境内全域が大きな被害を受けている。

 直下型地震は、大陸側のプレート(地球表面の岩盤)と海側のプレートがぶつかり合うことで、大陸側プレートの内部でゆがみが蓄積され、耐え切れなくなると岩盤が壊れて、ずれ(断層)を起こすことで発生する。震源が浅いために、地表にエネルギーを伝えやすく、被害を拡大させるケースが多い。

慶長伏見地震で倒壊した指月伏見城の復元石垣 =京都市伏見区
慶長伏見地震で倒壊した指月伏見城の復元石垣 =京都市伏見区
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◆阪神大震災の10倍の力

 阪神大震災以降、その原因となった活断層の調査が積極的に行われるようになり、正確な位置や活動の性格、活動履歴などが明らかになっている。こうした調査により、慶長伏見地震を引き起こした断層の特定も進んできた。

 それによると、活動したのは大阪府高槻市から神戸市北区に延びる有馬-高槻断層帯、淡路島東岸を走る東浦断層など。この間をつなぐ六甲山南麓の断層帯は調査がまだできていないものの、被害の状況から全部か、一部が動いた可能性が強い。そうすると、慶長伏見地震では京都盆地西端から淡路島に至る約80キロの長さで、活断層が一斉に活動したとみられる。地震の規模を示すマグニチュード(M)は7・5~8が想定される。阪神大震災(M7・3)の10倍のエネルギーが放出されて、被害も広範囲に及んでいた。

 ただ、慶長伏見地震では淡路島東岸の断層が動いたものの、近くの野島断層は活動した痕跡がなく、なりを潜めた状態だった。

須磨寺の境内にある阪神大震災の物故者追悼碑 =神戸市須磨区
須磨寺の境内にある阪神大震災の物故者追悼碑 =神戸市須磨区
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 地震考古学が専門の寒川旭・産業技術総合研究所名誉リサーチャーは「京阪神や淡路島では、約2800年前に断層が活動して以来、慶長伏見地震まで動いていない。2000年から3000年の活動サイクルだ。ただ、近くの断層の活動に触発されて、動いてもよさそうな野島断層だけは動かず、400年以上たって阪神大震災で活動した。これで野島断層の活動も2000年サイクルだったことが分かったが、もし、慶長伏見の時に野島断層が動いていたなら、阪神大震災はなかっただろう」と話している。

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■平敦盛の首塚と愛用の「青葉の笛」伝わる

【用語解説】須磨寺

 正式名称は上野山(じょうやさん)福祥寺。同寺に残る「略歴縁起」によると、和田岬(神戸市兵庫区)の沖合から引き揚げられた聖観世音菩薩像を安置するため、淳和天皇(786~840年)の勅命で北峰寺(同)を建立。仁和2(886)年に、光孝天皇の勅命により聞鏡上人が現在地に寺を建てて、北峰寺から聖観世音菩薩像を遷(うつ)したのが始まり。平安時代末期の寿永3(1184)年、源平が戦った一の谷合戦では、源氏の大将・源義経の陣地が置かれた。源平のゆかりが深く、源氏に討たれた平清盛のおい、平敦盛の首塚、敦盛愛用と伝わる「青葉の笛」が残されている。

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