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【歴史の転換点から】信長をめぐる女たち(2)修理夫人の十字架と乳母に感じた「母」

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騎乗、矢を射る若き織田信長の像。後方左の山頂には復元された信長ゆかりの岐阜城天主閣がみえる=岐阜市(関厚夫撮影)
騎乗、矢を射る若き織田信長の像。後方左の山頂には復元された信長ゆかりの岐阜城天主閣がみえる=岐阜市(関厚夫撮影)
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 「女心の迷いゆえ、はからずもことここに至ってしまったけれど、汝(なんじ)、信長にとってわれは叔母なるぞ! このような死を与えられるはずがないにもかかわらず、無情かつ非道の仕業は不孝というべきか、大悪というべきか。われがその罪を赦すとも天が赦しはせぬ。信長よ、いまに見よ。やがて因果が巡り、苦悶(くもん)のうちに死を迎えるであろうぞ!」

「女城主」の呪い

 天正3(1575)年11月8日(旧暦)、美濃国の長良川河川敷(現在の岐阜市)。磔(はりつけ)台にかけられた(より残酷な逆さ磔の刑だったともいう)とき、岩村城(現・岐阜県恵那市)の「女城主」として後世に伝えられることになる「修理(しゅり)夫人」はそう泣き叫んだ、と江戸時代初期成立の『美濃国諸旧記』は伝えている。一方、安土桃山~江戸初期研究の貴重な史料とされる『当代記』の記述は「諸旧記」とちがった意味でおどろおどろしい。

 「3年来敵対してきた鬱憤を晴らすため、信長は(捕虜となった叔母の修理夫人を)岐阜に引き回したうえ、自身で斬ろうとした。ところが、刃が通らず、死ななかったという。この刀はもちろん名刀である。にもかかわらず、刃が通らないとは『不死身なのか』とみな噂しあったということである」

 修理夫人の生年は不詳。ただ、織田信長の父、信秀の妹であることにまちがいはないようだ。これも年月不明ながら、戦国期には「西の大垣、東の岩村」と称されるほど美濃国(岐阜県)の軍事・交通の要衝だったこの地域を治める岩村城主、遠山景任に嫁いだ。織田家と遠山家が同盟を結び、東からの脅威・甲斐国(山梨県)の武田信玄に備える、という構図だろう。

 平成の初めに山麓に再建された太鼓櫓からいくつかの急坂の石畳をいくつか登って約半時間。標高約720メートル(旧岩村町の平均標高は約550メートル)の山頂に建造され、「霧ケ城」の別名をもつ岩村城は日本3大名城の一つに数えられた。しかし、明治維新後、本丸や二ノ丸などすべての建造物が破壊され、いまは石塁と眼下に広がる景観が往時を伝えている。

旧岩村町で。「女城主」は地域のシンボルでもある=岐阜県恵那市(関厚夫撮影)
旧岩村町で。「女城主」は地域のシンボルでもある=岐阜県恵那市(関厚夫撮影)
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「おんな城主」は「無名の主役」

 実は「修理夫人」の実名は伝わっていない。

 当時、よほど場合でないと、女性は「○○の女(むすめ=娘)」「××の室(妻)」などと実父や夫との関係でしか史料に登場しない。これは前回詳述した信長の正室についても同様で、「帰蝶」や「濃姫(美濃からきた姫君)」などと実際に呼ばれていたか否かは不明である。修理夫人の場合、遠山景任が「岩村修理亮(しゅりのすけ)」とも呼ばれていたとされることからこの名前が後世に残ったようだ。

 「おつやの方」とも、彼女は呼ばれている。こちらのいわれは「いまのところ不明」(恵那市教育委員会)というが、この名前と「女城主」という通称は「岩村城築城800年」を祝った昭和60(1985)年を契機に、地域振興や観光の「主役」を務めてきた。同じ年に生まれた日本酒ブランド「女城主」は地元を代表する銘酒となり、「おんな城主」や「女城主の里」にちなんだグルメやスイーツ、おみやげなどが次々に登場している。

数奇な「女の一生」

 修理夫人は男子に恵まれず、信長の五男(四男説も)、御坊丸(後の信房)を養子とした。が、元亀2(1571)~3年ごろに景任が没すると彼女の運命は急転回をはじめる。

 天正元(1573)年の早春、信玄は重臣の秋山虎繁(信友、晴近とも)に岩村城攻略を命じた。城はたちまち包囲されたが、早期に落城する気配をみせない。以降、史料によって多少の差異はあるのだが、秋山はそこで「女城主」として岩村城を守る修理夫人に密使を送り、「織田方からの援軍がないなか、孤城で無駄死にしてなんとする。幸い自分には正室がいないからぜひわが妻に。そうすれば御身(おんみ)だけでなく、御坊丸もこの城の跡取りとして、また城兵たちの命も保証しよう」ともちかけた。

 修理夫人は「よろこんでこの提案を受け入れた」と『美濃国諸旧記』や江戸中期に書かれた『巖邑(いわむら)府誌』は伝えている。だが、御坊丸は信玄のもとに人質として送られ、これが修理夫人自身の「裏切り」とともに、信長の逆鱗にふれることになる。

織田信長を祭神とする建勲神社から。京の都が一望できる=京都市北区紫野(関厚夫撮影)
織田信長を祭神とする建勲神社から。京の都が一望できる=京都市北区紫野(関厚夫撮影)
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「信長ぎらい」の史書?

 そして運命の天正3年。信玄の跡を継いだ武田勝頼が5月(旧暦)の長篠の戦いで織田信長軍に決定的な大敗を喫するともはや武田家に岩村城を維持する余力はなかった。開城とともに修理夫人と秋山は織田軍にとらえられ、冒頭の修羅場にいたる。

 「古語にいわく、『おじは父に続き、おばは母に続く』。御坊丸が殺害されたのならばいざしらず、人質となっただけなのに信長は父母と同等の親族を殺すというかつてない不孝の罪をおかした。信長は時の運と合戦での多大な果報による勝利によって一度は天下を取ったものの、天運が傾けばたちまち臣下の明智光秀のために嫡男の信忠とともに本能寺で討たれた。このような罪やそれに対する罰の数々が月々、年々と重なり積もり、ついに破滅の日を迎えたということだ」

 『美濃国諸旧記』は「修理夫人磔」の描写のあと、そう論評している。

母の「選択」

 修理夫人だけではない。戦国の世ゆえであろうが、悲劇に見舞われる信長の血縁の女性は少なくない。彼の妹、お市の方はその代表格だが、生母の「土田氏(土田政久の娘)」もその一人といえるだろう。

 『信長公記』によると、「大うつけ」の異名があった若き信長とは対照的に、同腹の弟、信勝(信行)は品行方正でしられ、ひそかに彼を「跡取りに」と思う家臣も多かった。こうしたなか、弘治2(1556)年、信長の筆頭家老の林秀貞や重臣の柴田勝家が信勝を擁して叛旗を翻すという事件が起きた。

 信長は間髪をいれずに反乱軍を撃破。このさい、信勝の命乞いをしたのは、信勝とともに彼の本拠・末盛(森)城で起居していた母の土田氏だった。

 2年後、信長は柴田勝家から「信勝様が再び謀反を企てている」との密告を受ける。信長は仮病を装って自身の居城である清洲城まで信勝を呼び寄せたうえ、家臣に命じてこの実の弟を謀殺する。

 『信長公記』いわく、仮病の信長の見舞いにゆくよう説得したのは「おふくろ様(土田氏)ならびに柴田勝家」である。土田氏が信長と勝家の底意を知っていたかどうかはわからない。しかしながら一度は救った実子の命を、少なくとも結果的には奪う役割を担ったことになる。土田氏は本能寺の変の後も数年間は生存していたとみられている。晩年の彼女にはどんな思いが去来していたのだろう。

信長が慕い続けた「母」

 一方の信長である。彼が実母を、また弟の信勝をめぐる実母の行動をどのような目で眺めていたかについては、想像をたくましくするしかすべはない。

 さて、「中世の乳母は養育と教育の両方に責任を持つ存在であった。(中略)養君(やしないぎみ)にとって、母親と先生とを兼ねる存在、これが乳母であった」(田端泰子氏著『戦国の女たちを歩く』)という。乳児ながら癇癖が強いあまり乳首をかみ切ってしまうため、信長の乳母は始終交代せざるをえなかった。ところが、近世の大名家・池田氏の祖である恒利の正室(後の養徳院)の乳を吸っているときだけは信長に疳(かん)の虫がおこらなかったという。

 信長は彼女を「大御乳(おおおち)」と呼んだ。実母への書状は確認されていない一方で後年、信長はこの乳母に宛てて所領を安堵(あんど)する文書を発布している。乳母が制度化していた戦国期の上流武家においては実母と実子が必ずしも現在と同様の母子関係を結ぶことができなかったという指摘もある。信長は実母よりむしろ乳母に「母」を感じ、それは終生変わることはなかった-。そう思いたい。(編集委員 関厚夫)

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