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【教科書が教えない 幻の堺幕府】「海船政所」は三好軍勢のベースキャンプ?

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 室町時代後期、足利義維(よしつな)をいわゆる「将軍」に、細川晴元を「管領(かんれい)」に頂いていた「堺幕府」。しかし政権を実質的に取り仕切っていたのは、軍司令官を務めていた阿波(あわ)(徳島県)の武将、三好元長だった。その拠点は現在の堺市堺区にあった顕本寺(けんぽんじ)以外にもう一つ、「海船政所(かいせんまんどころ)」と呼ばれる重要な施設があったのではと推測されている。一体、どんな施設なのか。(古野英明)

何のための広大な敷地?

 海船政所に関しては、室町時代後期当時の記録は残っておらず、江戸中期の宝暦7(1757)年に書かれた堺の地誌「全堺詳志(ぜんかいしょうし)」にわずかな記述があるのみ。その全堺詳志には、海船政所は永正元(1504)年、元長の祖父・之長(ゆきなが)が建設を計画し、元長の代で完成、大永7(1527)年の「堺幕府」成立前の大永元(1521)年に「政所」の号を得たと記されている。

三好元長画像(坂東広隆氏所蔵)
三好元長画像(坂東広隆氏所蔵)
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 「政所」というからには、政(まつりごと)を執り行う場所、あるいは荘園(しょうえん)管理事務所、奉行所(ぶぎょうしょ)のような施設のことだと思われる。

 全堺詳志によれば、館の中央に高楼を建てて四方を監視し、有事には鐘と太鼓を打ち鳴らして一族郎党に知らせたという。また、その規模については「東西360歩(約650メートル)、南北これに倍す」と伝えている。堺市博物館の元学芸員、吉田豊さんは「この記述からすると桜之町西あたりから現在の大和川あたりまでが敷地だったと考えられます。多少は割り引く必要がありますが、それにしても当時、有力武将の屋敷地が1町(約100メートル四方)であったことを考えると、群を抜いて広かったといえます」と話す。

埋没して面影なし

 南海本線・七道(しちどう)駅から南へ歩いて数分。堺のまちを取り囲む環濠(かんごう)の北側、堺市堺区桜之町西に海船政所跡の石碑と案内板がある。あたりは民家が立ち並ぶ住宅地で、民家前にぽつんとある古びた石碑は案内板がなければ見逃してしまいそうなほど、現代の風景の中に埋没してしまっている。

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 この石碑は昭和33年に堺市が建立したものだが、ここからさらに南東約400メートルほどの同区錦之町西の錦西コミュニティー広場前には、「此附近三好氏海舩館址」と刻まれた、三好氏の海船政所が置かれていたことを示す、大正8年大阪府建立の石碑がある。こちらは植え込みの木の陰に隠れ、枝葉をかき分けないと見えない。桜之町西の石碑以上に目立たない史跡に、地元住民も「長年ここに住んでいるが、何の碑なのかわからない。あまり気にしたこともない」と冷淡だ。

 海船政所の遺構(いこう)はまったく残っておらず、伝承が残るめぼしい場所といえば、この2つだけ。広大な敷地を誇ったという盛時の面影をしのばせるものは見当たらない。だが、かつてこのあたりは目前に海が迫っており、「堺の入り口」といわれた交通の要衝だった。

軍事拠点か

 海船政所の役割について吉田さんは「政庁機能を備えた施設でもあったでしょうが、それだけでこんなに広大な敷地が果たして必要だったのか」と疑問を呈し、「三好の軍事拠点だったのではないか」と推測する。

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 具体的には、有事に備え兵士らを駐屯させるベースキャンプのような施設を想定。畿内をほぼ制圧したとはいえ、近江(滋賀県)に逃れた室町幕府の将軍・足利義晴と管領・細川高国が京都奪還(だっかん)を虎視眈々(こしたんたん)と狙っているなど情勢はまだ不安定。「事あるごとにあちこちに転戦する兵士らの野営地が必要」だったと推定される。

 阿波の軍勢は1万人近かったといわれ、これだけの数の兵士を収容するスペースは当時の環濠中心部にはない。吉田さんは海船政所の推定位置が環濠北端あたりであることに着目した。

 「城下町では武家地と町人地は分かれています。義維の居所・引接寺(いんじょうじ)があって多くの町衆も住んでいる中心部に、荒くれ者集団を混在させるわけにはいかないでしょう。中心部から外れた環濠の北端なら土地も広くとれるし、北側から敵が攻め込んできたときの防衛にも有利です」

錦西コミュニティー広場前にある「此附近三好氏海舩館址」(海船政所のこと)の石碑  (大正8年、大阪府建立)
錦西コミュニティー広場前にある「此附近三好氏海舩館址」(海船政所のこと)の石碑  (大正8年、大阪府建立)
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 野営地は環濠の外側の広大な敷地に設けられたとみられ、義維ら堺幕府の重鎮や役人、町衆らと、兵士が明確に分離されたはずだという。

 「さまざまな条件を検討すると、海船政所は政庁というよりは軍事拠点だったとしか考えられません」と吉田さん。軍司令官を務める一方、政治的にも義維と晴元を補佐していた元長が、軍事拠点である海船政所と引接寺や顕本寺がある幕府中枢地を行き来していた姿が目に浮かびそうだ。

 中枢部は環濠に囲まれ、軍のベースキャンプも備えていた堺幕府。次回は義維、晴元、元長らがなぜ堺に拠点を置いたか、さまざまな事情に触れたい。   =続く

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