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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」(10)ゆかりの地に私学が伝える理念

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再現された楠木正成像=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)
再現された楠木正成像=大阪府千早赤阪村(恵守乾撮影)
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 大阪府内唯一の村・千早赤阪村の山間部。楠木正成(くすのき・まさしげ)が鎌倉幕府軍を迎え撃ち、約100日間の籠城戦を展開した地の一角に、私立浪速学院(高校・中学校)=大阪市住吉区=の校外学習施設「多聞尚学館(たもんしょうがくかん)」は建つ。施設の名は、正成の幼名・多聞丸にちなんでいる。

 もともとは廃校になった旧村立多聞小学校だった。そこを購入し、改修して平成21年春に開設した。シンボルは校内に建つ騎馬武者姿の正成像。別の村立小学校(廃校)にあった像を基に3Dプリンターで再現した。本体部分は高さ約1・5メートル、幅約1・2メートル、奥行き約0・5メートル。FRP(繊維強化プラスチック)製で、29年12月に設置した。

 生徒たちは、泊まり込みで弱点克服や難関大学を目指す講座を受け、金剛山登山の拠点などとしても利用する。利用者は年間延べ約6千人。コンビニが一軒もない山村は、勉学や鍛錬の場として格好だ。

 「卒業生から『(合宿中は)しんどかったが、仲間と集団生活の中で頑張ることができたのは、貴重な経験だった』という話を聞きます」

 高校教頭の栗林清和さんはそう話す。「学力向上とともに、多聞尚学館が心の鍛錬で貢献していると思います」

 〈汝(なんじ)はすでに十歳に余れり。一言(いちごん)耳の底に留まらば、わが教誡(きょうかい)に違(たが)ふ事なかれ。(中略)今生(こんじょう)にて汝が顔を見ん事、これを限りと思ふなり〉

 湊川の戦いに赴く正成が、数え11歳の嫡子・正行(まさつら)に後事を託した「桜井の別れ」を、『太平記』はそう記す。正成は、私の教えが耳に残ったならばそれに背かないようにしなさい、と諭す。その場面は唱歌「楠公の歌」になって、学校教育が始まった近代日本で親しまれた。

 「青葉茂れる桜井の…。母が歌っていた歌を自然と口ずさんでいました」

 100年近い歴史を持つ同学院の木村智彦理事長は、校外学習施設の建設予定地を求めて同村の千早神社近くを歩いていた時をそう振り返る。当初目的としていた施設は諸事情で断念せざるを得なかったが、帰路で偶然、旧多聞小の建物を見つけたという。

 これだ、と思い、正成にちなんだ施設として命名し、正成像を置いたのはすべて木村理事長の発案だ。

 「教育を通じてしか日本は変わらない。その教育で大切なのは『歴史に学ぶ』こと。日本人の心の原点を子供たちに分かりやすく説明する対象としては楠木正成は最適の人物の一人です」

 木村理事長が正成を評価するのは、一途に公に尽くした生き方とともに、その存在が明治維新の立役者たちの精神的支柱となった点だ。

 「戦後、希薄になったのは『公』の精神。これこそが生徒に伝えていかなくてはいけないことだと考えています」

 〈パパ、いつもおしごとあるのにようちえんにおくってくれてありがとう〉

 縦10文字・横7行の用紙に、幼稚園児が言葉をつづる。四條畷(しじょうなわて)学園大学附属幼稚園(大阪府大東市)が、卒業文集として数年前から進める取り組みだ。

 幼稚園から大学まである四條畷学園は、大正15(1926)年創立の四條畷高等女学校が起源。建学の精神にあるのは「報恩感謝」だ。小谷明理事長は「世代に応じて人間教育の中で、感謝の大切さを伝えています」と話す。

 〈四條畷神社境内に摂社御妣(みおや)神社が建設されたのを動機に、祭神大楠公夫人を中心思想としてこの霊地を擇(えら)ぶこととなった〉

 同学園創立の事情を、創設者の牧田宗太郎は自伝でそう記す。四條畷の戦いで敗死した正行を祭る四條畷神社に、正行の母で正成の妻、久子を祭る御妣神社を建立したのは四條畷の女性たちだった。大正14年のことである。逆境の中で正行を育てた久子は「みおやさま」と慕われた。

 その久子を宗太郎が学園の基本思想に据えたのは、母・栄(子)の姿が重なったからだ。父・虎之丞は大坂城詰めの幕臣だったが、明治維新で失職。一家を支えるため、栄は内職をしながら自身を含む子供7人を育てた。宗太郎が昭和20年に亡くなった後は、妻の隈(くま)が遺志を継いだ。

 「戦後間もないころ、小学校建設に伴う土地購入のために一軒一軒、持ち主を訪ね歩いたそうです。苦しくても耐え抜く自身の姿を、久子と重ねていたのかもしれません」

 宗太郎夫妻のひ孫で、学園理事の牧田朝美さんはそう語る。正成の妻もまた、日本人の心を持つ人物として、近代・現代日本を生きる人たちの精神的支柱になっていたのである。

 戦前の日本では、正成や正行たちは教科書に採用され、日本人の心に深く浸透していた。戦後の公教育では文字通り、忽然(こつぜん)と姿を消したが、それでも理念は私教育の場で厳然と生き続け、未来を担う若者たちに伝えられている。=毎週金曜掲載

 ■教科書に採用された正成父子

 楠木正成・正行父子は、明治6(1873)年に文部省が小学校教科書として初めて編纂(へんさん)した国語教科書『小学読本』に登場している。その後、明治政府は明治14(1881)年、「小学校教則綱領」を公布し、歴史の教育内容を初めて明文化。〈殊ニ尊王愛国ノ志気ヲ養成センコトヲ要ス〉と明記し、新政府樹立の柱ともいえる「尊王愛国」の精神を国民に教えることに主眼を置いた。

 20世紀最初の年、明治34(1901)年に発行されたのが全54ページの『尋常修身教科書』。渡辺崋山ら歴史上の人物などを題材にし、楠木父子に関する記述は17ページ。全体の3分の1近くを占め、重要視されていることが分かる。湊川の戦いで正成と弟・正季(まさすえ)が刺し違える場面も教科書で採用されたが、先の大戦で敗色が濃くなるにつれ、死に関する部分の描写が「美化」されていった。

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