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【本郷和人の日本史ナナメ読み】尊敬する人、漱石先生

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夏目漱石(大正元年)=国立国会図書館蔵
夏目漱石(大正元年)=国立国会図書館蔵

 ■史料編纂所との意外な縁?

 ぼくは夏目漱石をたいへんに尊敬しています。すばらしい小説を書いたから、だけではありません。その生き方がすごい。帝大の英文学の教職をスパッとやめて筆一本の生活に入ったこと。文学博士号を授与されたにもかかわらず、そんなものは不要と返上したこと。ぼくは自分が一人では何もできない無能な人間だと熟知しているので、東大の史料編纂(へんさん)所員の地位にしがみついています。また、だれもぼくの業績を評価してくれなかったので、とにもかくにも博士号を取得しようとあくせくしていました。20代半ばからの10年間は、それが人生の大目標でした。そんなぼくからすると、漱石先生はあまりにかっこいい。かっこよすぎです。

 漱石はご存じのようにまず松山中学で教鞭(きょうべん)をとり、熊本の五高に移ります。そこからロンドンに留学して、帰国してから一高と帝大で英文学を教えました。これまた文学好きにはよく知られることですが、五高での英語の前任者はラフカディオ・ハーン、すなわち小泉八雲でした。しかのみならず帝大の前任者も八雲でした。漱石には何の責任もないのですが、八雲を追い立てるようなかたちになったのです。

 八雲は帝大では「ヘルン先生」と呼ばれていたようですが、とても人気のある教師でした。ですから八雲がやめ、新しくイギリス帰りの若い(漱石は八雲より17歳年少)先生が教壇に立つことを忌避する学生がたくさんいました。八雲は古き良き日本を紹介してすでに世界的な名声を得ていましたが、当時の漱石は俳句の世界では注目されていたものの、ぼくたちの知る「文豪」ではありませんでしたので、学生たちの反発はもっともです。

 漱石を嫌った一人が川田順でした。彼はヘルン先生のいない文科(文学部)なんて、と法科(法学部)に転じてしまいました。卒業後は住友に入社。常務理事にまで出世します。その間、佐佐木信綱門下の歌人としても活躍。戦後は皇太子(いまの上皇陛下です)の作歌指導や歌会始選者をつとめました。

 川田順の名が広く社会に知られるようになったのは、いわゆる「老いらくの恋」の一件です。妻を失っていた彼は62歳の時から指導にあたっていた27歳年下の女性歌人(京大教授夫人で3人の子があった)と恋に落ち、煩悶(はんもん)した末の自殺未遂などがあって、昭和24年、67歳の時に結婚しました。功成り名遂げた人の恋愛はたいへんな騒ぎになりました。志賀直哉の戯曲『秋風』、辻井喬(たかし)『虹の岬』はこの恋愛をあつかったものです。

 川田を調べていて、もう一つ「おや」と思ったことがあります。彼の父が川田剛(1830~96年)なのです。

 川田剛。通称は竹次郎、号は甕江(おうこう)。備中の人。苦学の末に備中松山藩の執政であったあの山田方谷(ほうこく)(備中聖人と呼ばれる陽明学者。数年で松山藩の財政再建を実現させた)の門人となり、また松山藩に仕えました。するとすぐに頭角を現して江戸藩邸の教授となり、方谷門の筆頭として扱われるようになります。戊辰戦争では藩主板倉勝静(かつきよ)(松平定信の孫にあたる)が老中として幕府軍に参加したために苦難を強いられますが、蝦夷地まで転戦した勝静の捜索など、高齢の方谷に代わって藩の存続に尽力しました。

 維新の世になると、剛は藩を退いて塾を開き、薩摩藩の重野安繹(やすつぐ)と双璧をなすと謳(うた)われました。そして山田方谷を尊敬していた木戸孝允の推挙により太政官に出仕、大学小博士として重野安繹とともに国史編纂の責任者になりました。国史編纂構想は明治10(1877)年、太政官内に修史館を設置することで結実します。この修史館こそは、現在の東京大学史料編纂所なのです。

 ところが、ここで大問題が。剛と重野の激しい衝突です。気さくでおおらか(悪く言えばおおざっぱ、いいかげん)な剛と、完璧なものを追求する(悪く言えば重箱の隅をつつくタイプ)重野は性格からして合わなかった。この対立は今でもいろいろな場面で見られますね。それから肝心の仕事の面では、重野が新しい日本の国史を作ろうと意気込んでいたのに対し、剛は史料の収集を優先すべきだと考えていました。

 2人のぶつかり合いは、結局は剛の退任というかたちで決着します。それが何を意味するのか。日本史という学問の根幹に関わることなので、もう少し見ていくことにしましょう。最後にもう一度漱石に帰りますので、おつきあいください。

 次回は2月6日に掲載します。

 ■あこがれの夏目漱石 1867~1916年。言わずと知れた日本を代表する文豪。下戸の甘党。ほりが深い顔立ちなのになぜか容貌にコンプレックス(あばたがあったらしい)。背が高くない。英文学者だが、和歌や俳句に造詣が深く、でも本当に得意とするのは漢文。女性が苦手。寺田寅彦、小宮豊隆、鈴木三重吉、松根東洋城、芥川龍之介ら錚々(そうそう)たる人が門下に名を連ねる。ああぼくも弟子になりたい。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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