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【文芸時評】1月号 早稲田大学教授・石原千秋 生きるための悲しみ

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 村上春樹が群像新人文学賞贈呈式で、〈小説家になったら村上龍という筆名で書こうと思っていたが、先に村上龍がデビューしてしまったので村上春樹でいくしかなくなって残念だ〉という趣旨の「人を喰つた」受賞の挨拶(あいさつ)をしたと、丸谷才一が紹介している(『挨拶はむづかしい』)。村上春樹ファンなら誰でも知っているだろう。

 その村上龍が春樹の向こうを張って『ねじまき鳥クロニクル』の書き直しに挑戦したのかと、一瞬わが目を疑った。「MISSING 失われているもの」(新潮)約20万字の大作のことである。

 冒頭で「おれ」に話しかける(実は「おれ」が自分の無意識と自己対話しているらしいが)飼い猫は「カラスと呼ばれる少年」(これは『海辺のカフカ』)かと思ったし、「おれ」にその記憶はないが「おれ」と寝たと主張する真理子はいつ「笠原メイ」になるのかと心配だったし、「おれ」に幼いときのことを長々と話す「母」は加納クレタか加納マルタみたいだし、ノモンハンの代わりに朝鮮からの引き揚げの話があり、もちろん「井戸」も出てくる。

 こういう設定で何を書こうとしたのだろうか。「わたしの無意識の領域で何が起こっているのだろうか」という冒頭近くの「おれ」の心の中の言葉がそれを語っているようだ。それは「ミッシング」、つまり「お前が、探そうとしているのは、ミッシングそのものなんだ。何かが失われている。ある世界から? お前自身から? おそらく両方だろう」と。「おれ」は無意識の中で「この世」と「あの世」を行き来する。真理子は自分たちがいるのは「境界」だという。そのようにして、「おれ」は「母」の話によって時間旅行をして過去にさかのぼり、ついに「飛行機の音ではなかった」で書き起こされるデビュー作を書く(もちろん『限りなく透明に近いブルー』)。「父」のことを知ることもできる。

 この小説には「真理子が実在するかどうか、どうすれば確かめることができるのか」というように「実在」という言葉が頻出する。これには、ものすごく大雑把(おおざっぱ)に言うなら〈宇宙は科学が計測できることだけでできているわけではない、想像したことも宇宙に実在する〉と考える新実在論が鳴り響いている。これをなじみ深い言葉で言えば無意識だと言いたいのだろう。つまり、無意識は記憶しているのだと、宇宙には現在の現実だけでなく過去もあの世も「実在」するのだと、「現実には、意味がない」が「失われているもの」こそ実在しているのだと。新実在論を形で示そうとしている。

 作中にこうある。「『悲しみが、失われている』/悲しみは、生きるために必要な感情だ。大切な人を失ったとき、複雑に折り重なる記憶の中の、確かな場所にその人を刻みつけるために、わたしたちは悲しみに包まれる。そして、悲しみによって、わたしたちは何が失われたのかを知る」と。「確かな場所」とは無意識のことだろう。人はあまりに悲しいとき、何が悲しいのかを言葉にできない。それどころか「悲しい」とさえ言えない。しかし、人は無意識というそれを「刻みつける」場所を持っている。「失われているもの」を実在させるのは「悲しみ」なのだと。これが文学だ。

 村上春樹はさりげなく現代思想を小説化し、村上龍はこれでもかという具合に現代思想を小説化してきた。「MISSING 失われているもの」は、村上龍の流儀をいかんなく発揮した野心作だと思う。村上龍は村上龍。

 それにしても、猫と母。平野芳信は、村上春樹のエッセー「猫を棄てる-父親について語るときに僕の語ること」にこと寄せて、村上春樹が日本の作家にしては例外的に母親を書かないこと、子供時分の春樹に猫を捨てるように指示した人物について、示唆的に論じる(「デレク・ハートフィールド考」『京都語文』第27号、令和元年11月)。ここに村上龍と村上春樹の違いがある。

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