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【歴史シアター】光明皇后、藤原氏の一族…「宮寺」墨書土器 奈良・法華寺

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 聖武天皇とともに仏教に深く帰依し、病人や孤児のために施薬院や悲田院などの福祉施設を作り、救済事業を行ったことで知られる光明皇后(701~760年)。父親である藤原不比等の邸宅を譲り受けて、寺院(法華寺)=奈良市法華寺町=を建立したという「続日本紀」の記述を裏付ける墨書土器が見つかっている。墨で書かれていた文字は「宮寺」。法華寺の前身寺院の名前と一致したが、出土したのは法華寺ではなく、少し離れた同時代の貴族邸跡。その主は不明ながら、宮寺の建立にかかわった人物とみられる。一体、どんな人物だったのだろうか。(編集委員・上坂徹)

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◆異例の臣下で立后

 「宮寺」と墨で書かれた須恵器が出土したのは、法華寺から南東約1・2キロで、平城京で採用されていた、都市を碁盤の目状に区画した条坊制では「左京二条四坊十坪」に当たる場所。これまでの発掘調査で、奈良時代中頃から後半にかけての邸宅跡を確認。「宮寺」の墨書土器はその一角から見つかった。

 光明皇后は、聖武天皇が皇太子だった霊亀2(716)年に妃となり、即位(724年)の5年後に皇后に立てられた。皇后は皇族であることが原則とされており、臣下からの立后は極めて異例のことだった。

 仏教の信仰にあつかった聖武天皇は、仏教に基づく国家運営を目指し、東大寺の盧舎那仏(大仏)造立や、全国での国分寺、国分尼寺の建立などを進めた。聖武天皇と同様、仏教に深く帰依していた光明皇后がむしろ、こうした動きを主導したとみられる。

◆父の遺宅を寺院に

 養老4(720)年に亡くなった不比等から、宮域近くの邸宅を受け継いだ光明皇后は、ここを皇后宮(皇后が住む宮殿)とした。「続日本紀」には、天平17(745)年、「旧の皇后宮を宮寺とす」とある。出土した「宮寺」の墨書土器がこうした史実を裏付けている。

光明皇后が建立した法華寺 =奈良市法華寺町
光明皇后が建立した法華寺 =奈良市法華寺町
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 この宮寺は、法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)(法華寺)と称し、聖武天皇は東大寺を国分寺の中心である総国分寺としたのに対し、法華寺を総国分尼寺としている。

 一方、「宮寺」の墨書土器が見つかった邸宅跡だが、宅地としては北側の「九坪」と一体で利用していたとみられ、その規模は二町(約3万平方メートル)に及ぶ。その中で、掘っ立て柱の塀跡に囲まれる形で、5棟の建物を確認。中心部分には4面に廂(ひさし)を持つ東西18メートル、南北12メートルの建物と、その南側に東西12メートル、南北3メートルの建物が軒を接するように建てられていたようだ。両棟から床を支える柱穴が見つかっていることから、床板を張って一体的に使用していたとみられる。形状からは、公的な施設として使われていた可能性があるという。

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 こうした2棟を連結して一体利用した建物。平城京跡では、「左京三条二坊」で確認された長屋王の邸宅跡と、平城宮内の西宮跡など数例しか見つかっていない。長屋王は天武天皇の孫で、不比等の死後、律令政権の中心となったが、神亀6(729)年、謀反の密告を受けて自害に追い込まれている。

 「宮寺」の墨書土器は、2棟連結の建物の建設直前まであった建物の跡から見つかっている。が、邸宅の主は、光明皇后の寺院建立に協力した人物とみられる。では、どういう人物だったのか。

 2町分もの敷地に、2棟連結の公的な施設と居宅を建てていた人物。ここからは、当時の貴重品だった水鳥形の硯(すずり)なども出土している。

 発掘した奈良市埋蔵文化財調査センターの永野智子主務は「長屋王宅より一回り小さいが、かなりの規模の邸宅です。場所も高位の貴族の邸宅が並んでいた地域にあたる。住んでいたのは相当高位の貴人でしょう。光明皇后が藤原氏の出であることを考えると、藤原氏の一族だった可能性があるかもしれません」と話している。

 藤原氏は長屋王の死後、不比等の4人の息子(武智麻呂、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂)が太政官となり、政治権力を握るが、天平9(737)年ごろには、4人とも当時国中で流行していた疫病(天然痘)に罹患(りかん)し、相次いで亡くなっている。

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■仏教に深く帰依 福祉活動、積極的に

【プロフィル】光明皇后 藤原不比等の娘で、母は県犬養(あがたのいぬかい)(橘)三千代。名は安宿媛(あすかべひめ)、光明子とも。霊亀2(716)年、皇太子だった首(おびと)皇子(聖武天皇)の妃となり、聖武即位から5年後、皇后に立てられる。阿倍皇女(後の孝謙・称徳天皇)、基皇子を産む。基皇子は生後間もなく皇太子となったが、翌年死亡。聖武天皇とともに仏教に深く帰依し、東大寺大仏の造立や全国での国分寺、国分尼寺の建立を推進した。病人や孤児らを助けるために、施薬院や悲田院などの施設を作り、福祉活動も積極的に展開した。

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