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400年前にも「サラリーマン」の悲哀 古文書が語る「ある武士の生涯」

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北条氏滅亡後、徳川家康の息子・結城秀康の一族に仕えた桜井武兵衛が書いた「武士の履歴書」=神奈川県立歴史博物館
北条氏滅亡後、徳川家康の息子・結城秀康の一族に仕えた桜井武兵衛が書いた「武士の履歴書」=神奈川県立歴史博物館
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 勤め先が倒産し、再就職先でトップに忠誠を尽くすもトップが失脚、転勤を余儀なくされる-。戦国末期から江戸初期を生きた、ある武士の実話だ。最初に仕えた主が滅び、新たに仕えた藩で藩主に重用されたが藩主が改易され、国替えになった後継者の元で再出発を図った。この武士の家に伝わる書簡や、この武士が自らの戦功を書き連ねた「履歴書」ともいえる文書をひもとくと、約400年前とは思えない、現代を生きるサラリーマンのような生きざまが浮かび上がった。(橋本昌宗)

主君が滅亡、敵方に…

 主人公である武士の名は、桜井武兵衛(ぶへえ)。神奈川県立歴史博物館(横浜市中区)で公開されている文書や書簡から、その人生を追ってみたい。

 桜井氏は、少なくとも武兵衛の父、桜井左近の代から、戦国時代の関東に覇を唱えた有力武将・北条氏に仕えていた。3代目当主、氏康の家臣「江戸衆」として小石川(現在の東京都文京区)を所領としていた-という記録が残る。

 左近から武兵衛に代替わりすると「上野(こうずけ)衆」の一員となり、所領も上野国(現在の群馬県)内に移ったとみられる。上野衆を主に束ねていたのは氏康の息子で4代目当主・氏政の弟、氏邦(うじくに)。今風にいえば一族経営の大企業の子会社で働く勤め人-といった立ち位置だろうか。

 運命が一変したのは天正18(1590)年、豊臣秀吉が北条氏を攻めた「小田原合戦」。武兵衛も北条氏に付き従い小田原へ参集、戦ったとみられ、戦死することなく生き残ったが、北条氏は滅亡した。主を失った武兵衛が次に仕えたのは、関東の名門・結城氏の養子となって下総(しもうさ)国(現在の千葉県北部から茨城、埼玉、東京の一部)に入った結城秀康だった。

 秀康は、後に江戸幕府を開く徳川家康の息子でありながら人質のような形で秀吉の養子となり、小田原合戦後に結城氏の養子となった人物。所領が急拡大したこともあり、北条氏や甲斐の武田氏などの遺臣を積極的に登用していた。

 武兵衛もそんな一人だったとみられる。秀吉の死後、家康は慶長5(1600)年の関ケ原合戦を経て征夷大将軍となる。関ケ原の後、秀康は加増されて越前国(福井県)に転封になり、武兵衛も従った。秀康の元での武兵衛の知行(俸禄)は500石で、鉄砲足軽を指揮する「鉄砲組頭衆」だったという記録が残っている。

お家騒動で暗躍?

 しかし秀康は転封後間もなく死去。武兵衛は息子の松平忠直に仕えることになった。

 10代という若さで藩主の座についた忠直だが、将軍家の親戚として幕府から度々介入された上、父親が雇い入れた有力家臣たちからの突き上げもあり、家中の統制に苦しんだという。そのせいか、武兵衛ら比較的下級の武士を重用したとみられる。

 桜井家に伝わる文書の中には、忠直から武兵衛に宛てた書状も残されている。体調を崩した武兵衛を気遣い、「薬を送ったから養生するように」などと、家臣思いの一面がうかがえる。

 しかし、“再就職先”での生活も、平穏なものではなかったようだ。忠直が武兵衛に宛てた慶長16(1611)年の書状では、「かの者」を監視、監督するよう、しきりと指示を出している様子が見受けられる。

 「かの者」が誰のことなのかは判然としないが、同博物館の渡辺浩貴学芸員は、「この書状の翌年には藩を二分した内部抗争『久世騒動』が起こっており、忠直と反対の派閥に属する家中の人物のことではないか」と推測する。

 お家騒動の中、武兵衛がどのように暗躍したのか定かではないが、桜井家に残る文書には、忠直の下で知行を加増されていった様子が記されている。忠直の“特命係”として、職務に励んでいたのだろうか。

 結局、久世騒動は忠直が肩入れした派閥が敗れる。反対派閥が藩政を握るようになると、忠直は元和9(1623)年、不行状を理由に改易されてしまう。

 藩主は息子の光長が継ぐ予定だったが、翌10年には幕府の指示で、高田藩主だった忠直の弟、忠昌が越前藩を継ぎ、光長は越後国(新潟県)の高田に移ることになった。去就に迷う家臣も多い中、武兵衛は光長に従って越後に移り、家臣団として再編成された。

武士の履歴書

 武兵衛関連の文書で最も興味深いのは、武兵衛が自身の戦功を箇条書きにして書き連ねた「我等はしりめくり之覚(のおぼえ)」という文書だ。書かれた年は明らかではないが、忠直から光長に代替わり後の寛永年間(1624~1644年代)と推定される。

 この文書には、北条氏に仕えた天正年間から、久世騒動での戦働きなど、武兵衛の成し遂げた業績が11項目に分けてつづられている。渡辺学芸員は「光長から提出を求められたのか、自己PRのために武兵衛が自ら提出したのか分からないが、『武士の履歴書』とも言える興味深い内容だ」と話す。

 11項目のうち、9項目は北条時代の戦功についてで、北関東を転戦し城への一番乗りや伏兵として活躍したことなどが書かれている。残る2項目は、久世騒動や、忠直が家臣を成敗しようとしたときに起きた戦闘で、嫡男と家臣を失ったことについて触れられている。

 映像や写真もない時代、こうした「自己PR」はある意味誇張し放題で、信用性に欠けるように思える。だが武兵衛の文書には、一緒に戦った人物や、証人となる人物の名前が細かく書き込まれている。

 たとえば天正9(1581)年、現在の静岡県東部にある徳倉城(とくらじょう、※戸倉城とも)や泉頭城(いずみがしらじょう)で戦功を挙げたことについては、名古屋にいる「瀬戸与兵衛」なる人物が知っていると書かれている。

 北条氏滅亡から30年以上が経過しているにも関わらず、元同僚の所在を知っているのはどういうことか。渡辺研究員は、「武兵衛自身も関東で『再就職』した後、越前、越後と移っている。元同僚たちと連絡を取り合っていたということでは」と推測する。

 先代から務めた勤務先が倒産し、再就職先で苦労を重ねる一方、元同僚とも連絡を取り合い、証人になってもらう。世相に翻弄されながらもたくましく生きる姿は、転職を経験しながらも仕事で培った人脈を頼りに働く現代のサラリーマンに通じるものがありそうだ。

 北条氏から武兵衛らが受け取った感状や松平忠直から武兵衛への書状、履歴書などは、神奈川県立歴史博物館のコレクション展「『桜井家文書』-戦国武士がみた戦争と平和-」で22日まで展示されている。問い合わせは同博物館045・201・0926。

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