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【本郷和人の日本史ナナメ読み】戦国の小笠原氏(下)

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池田光政像(模本、東大史料編纂所蔵)
池田光政像(模本、東大史料編纂所蔵)

 ■家康との縁で有力譜代大名に

 林城を失って信濃から退去した小笠原長時は会津で死去しますが、その子の貞慶と嫡孫の秀政はやがて徳川家康に仕えます。なぜか家康は小笠原家を気に入ったようで、譜代大名の待遇を受けるとともに、秀政は家康の孫の登久(とく)姫と婚姻します。彼女は家康の長男、松平信康の忘れ形見。家康によって養育されていました。

 家康が関東に入ると、秀政は下総・古河(こが)3万石を与えられます。かつて関東公方の末裔(まつえい)である古河公方の居処(きょしょ)ですから、要地ですね。関ケ原の戦いではほぼ何もしていませんが、信濃・飯田5万石に加増。やがて秀政は出家し、家康のひ孫に当たる忠脩(ただなが)が家督を継ぎます。でも実権は依然として秀政のもとに。すると慶長18(1613)年、ついに父祖の地である信濃・松本8万石に加増移封。「松本よ、私は帰ってきた!」。良かった、良かった。

 青年に成長した忠脩は亀姫という女性と結婚。この人の父は徳川四天王・本多忠勝の後継者、忠政。母は松平信康の娘の熊姫。つまり、2人の母は姉妹で、2人はいとこ。小笠原家はさらに徳川家と縁続きになったのでした。

 好事魔多し。秀政・忠脩父子の運命は大坂の陣で暗転します。夏の陣、最後の天王寺・岡山の戦い。大坂方の決死の突撃で忠脩は戦死。秀政も負傷して、すぐに息を引き取ります。事実上の当主と若殿を失った小笠原家。でも彼らの戦死は、この後小笠原家の危機を救うことになります。忠脩夫人の亀姫は、夫が戦死したときに妊娠していました。幕府は彼女を忠脩の弟の忠真(ただざね)に嫁がせた上で、忠真に家督を相続させます。

 大坂の陣から2年後、本多忠政は伊勢・桑名10万石から播磨・姫路15万石に栄転。忠政の嫡男の忠刻のもとには秀頼未亡人の千姫が化粧料10万石持参で嫁いできており、忠刻の弟の政朝も播磨・龍野5万石に封じられ、姫路の本多家は大繁盛。小笠原忠真も本多ファミリーの一員として、松本から播磨・明石10万石に加増転封しています。

 こういうかたちで、一門を隣接して一定地域に配置する、という措置を幕府はしばしば取ります。たとえば元和8(1622)年に出羽・山形の最上家が改易されたあと、関ケ原の戦いのとき伏見城で名誉の戦死を遂げた元忠を父にもつ鳥居忠政が磐城平10万石から山形に22万石で入城。すると忠政の妹婿の戸沢政盛が出羽・新庄6万石に、娘婿の酒井忠勝が出羽・鶴岡(庄内)13万石に、いとこの松平重忠が出羽・上山(かみのやま)4万石に、というような例もあります。姫路の本多ファミリーには、西国への押さえ、という役割がふられたのでしょう。

 ただし千姫の夫、忠刻が惜しくも若死にしたことで、ファミリーには変化が。千姫は忠刻との間に生まれた女子とともに江戸城に帰ります。化粧料10万石は当然、幕府に返還。龍野にいた政朝が改めて嫡子となり、姫路へ。あいた龍野領は千姫の化粧料から1万石がプラスされて6万石とし、小笠原長次に与えられました。長次というのは、忠脩の遺児。父の顔を知らずに生まれてきたのですが、叔父の忠真と母とに育てられていたのです。やはり家康の血を引く人は待遇が良いのですね。

 寛永9(1632)年、加藤清正の子である肥後の大大名、加藤忠広が改易されました。そのあとに熊本城に入ったのは細川忠利。この人の妻は小笠原氏で、忠真の1つ下の妹。すると、細川氏の異動に伴い、忠真は明石10万石から、細川氏の旧領・豊前小倉へ。石高は5万石加増の15万石。ついでに龍野の長次も2万石増やしてもらって、豊前・中津8万石に。引っ越しがたいへんです。

 このあと小笠原本家は譜代大名、小倉15万石城主として続き、幕末まで続いていきます。九州の玄関口を押さえて、「九州探題」などとも呼ばれました。一方、中津の小笠原家は暗君が続いて、途中で4万石に減らされ、さらに跡継ぎがいなくて無嗣改易の憂き目を見ます。ところがここで、「祖先の勤労」(秀政・忠脩父子の戦死)により播磨・安志(あんじ)(兵庫県姫路市)に1万石で立藩を認められました。ただし、安志藩主はのちに小倉の小笠原本家から入ったために、小倉の分家のような扱いを受けるにいたったといいます。それでも明治維新まで、何とか家を安志の地で受け継いでいったのです。

 ちなみにあの宮本武蔵の養子の伊織は島原の乱などの功績で4千石を得て、忠真を支えました。彼の家は小倉藩の筆頭家老として続いていきます。

 次回は1月9日に掲載します。

 ■元姫路藩主、池田光政

 1609~82年。備前岡山藩主。江戸前期を代表する名君として知られる。教育の充実と質素倹約を旨とし「備前風」といわれる政治姿勢を確立した。全国初の藩校・花畠教場を開校し、寛文10(1670)年には日本最古の庶民の学校である閑谷学校(岡山県備前市)も開いている。正室は本多忠刻と千姫の子、勝姫であった。

【プロフィル】本郷和人

 ほんごう・かずと 東大史料編纂所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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