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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」7 小楠公、中国人留学生も尊敬

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正行らを祭る四條畷神社。境内には、父の正成と母の久子から教えを受ける正行の像もある =大阪府四條畷市(恵守乾撮影)
正行らを祭る四條畷神社。境内には、父の正成と母の久子から教えを受ける正行の像もある =大阪府四條畷市(恵守乾撮影)

 大阪府四條畷(しじょうなわて)市で、ほぼ東西に一直線に延びる参道の両端に、楠木正成(くすのき・まさしげ)の嫡子・正行(まさつら)(小楠公)を祭る神社と墓所がある。東端が四條畷の戦いで亡くなった正行と弟・正時ら25柱を祭る四條畷神社。約1キロ離れた西端が正行を葬った小楠公御墓所である。

 中間の参道上には昨年6月まで、同神社の一の鳥居があった。明治25(1892)年に創設された高さ7メートル近い立派な石鳥居だった。それが大阪北部地震で一部損壊し、崩落の危険があったために撤去されたのだ。

 約1年半、再建の話はどこからも出なかった。同神社は明治23年創建の別格官幣社で、氏子組織がないために経済力がなく、戦後の価値観の転換で楠公さん、小楠公さんが忘れられた存在になっていることも大きかった。

 「子供のころから見慣れていた、鳥居があるのが当たり前の風景が変わったのはやはり寂しい。どうにかしよう」

 声を上げたのは、鳥居の近くで不動産業を営む堀潤治さん(36)と市内の工務店棟梁(とうりょう)(大工)、木又誠次さん(40)だ。木又さんは15年前、町おこしのために四條畷青年団を結成し、神輿(みこし)が練り歩く「畷祭」を毎年行ってきた。神輿は一の鳥居を通って同神社まで参道を行く。スタートラインともいえる鳥居がないことを一番残念がっていた一人だった。

 計画では、樹齢200年以上の吉野檜(ひのき)5本を使い、6・934メートルの鳥居を来年9月までに再建する。木の鳥居とするのは、しなりがあって地震や強風に強いからだ。今後、クラウドファンディングなどで資金1300万円を集める予定だが、木又さんはすでに借金して資材を確保している。

 「小さな市なのに、全国で意外と四條畷の名が知られているのは神社があることと、楠木正行という武将がいたからです。正行が貫いた孝行は今も大切な価値観。正行の生き方、人物像もわれわれの世代で伝えていきたいと思います」

 「四條畷楠正行の会」の扇谷昭代表(71)も正行の足跡を後世に残そうとしている一人だ。正行との「出会い」は同市議に当選した50歳のときだった。

 地元を語るのに歴史は欠かせないと思い、通った市立歴史民俗資料館で中世史の史料が少ないことに気付いた。四條畷の地名は「四条縄手」として『太平記』に出ているが、そこで戦った正行の足跡が謎に包まれていることが理由だと感じた。

 「太平記にしても、数え11歳での桜井での訣別(けつべつ)と父・正成の十三回忌を済ませて挙兵した後のことが書かれているだけ。市のガイドブックをつくるにしても、正行のことを調べる必要があると思いました」

 いわゆる敗軍の将で史料が少ないことをカバーする方法として、正行と関係があったと推測できる同時代人の史料から、正行の足跡と人柄を読み解く手法を考えた。後村上天皇、北畠親房(ちかふさ)・顕家(あきいえ)、黙庵(もくあん)禅師、足利尊氏、高師直(こうのもろなお)・師泰、佐々木道誉(どうよ)、赤松円心…。勝者である足利方から得られる史実は参考になった。

 研究成果は、毎月開く同会の例会で報告し、翌月には『楠正行通信』にまとめた。その号は先月、100号を数えた。調べれば調べるほど正行に惚(ほ)れ込むと言う扇谷さんは、正行の魅力をこう語る。

 「足利2代将軍・義詮(よしあきら)が菩提(ぼだい)寺・宝筐(ほうきょう)院(京都市右京区)の自分の墓に並べて正行の墓を建てさせたように、敵からも愛される武将だったということですね。それは吉野朝復権のためだけに戦った、天下国家のためにだけ戦ったからです。橋から落ちた500人以上の敵兵を救った渡辺橋の義戦が有名ですが、天下国家のための戦いだから敗兵に対する憎しみはなく、それで生まれた博愛精神だったと思います」

 扇谷さんは3年前から、四條畷市にキャンパスを持つ大阪電気通信大で正行について話し、絵本やかるた、ポスターなどを制作する講座を行っている。現地学習で必ず行くのが渡辺橋跡(大阪市中央区)と、四條畷の戦いに出陣する前の正行が、辞世の歌を扉に刻んだ如意輪寺(奈良県吉野町)だ。

 今年は学生16人のうち5人が中国からの留学生だった。彼らの感想は、留学先ゆかりの人物が尊敬できる人だと知ることができて、本当によかった-というものだったという。

 「尊敬という言葉は、今の日本人からなかなか聞かないように思いますから、それもあってうれしかったですね。公のために尽くすとか博愛主義というものが万国共通の価値観だと教わったような気がしました」

■楠木正行(まさつら)

 楠木正成の嫡子。正時、正儀(まさのり)の弟がいたと伝わる。四條畷の戦いでは敵将・高師直を討ち取る寸前まで追い込んだが、師直の家臣が身代わりになったために討ちもらし、最後は正時、従弟の和田新発意(しんぼっち)とともに刺し違えたと『太平記』は記す。

 正成が湊川の戦いに赴く直前、桜井の駅(現大阪府島本町)で後事を託されたときは数え11歳だった。父の死を知り、自害しようとするが、母の叱咤(しった)で思い直して文武の道に励み、正成の十三回忌を済ませた後、足利幕府に対して挙兵。わずか3000の兵で藤井寺合戦、住吉合戦などで幕府の大軍を破り、最後は四條畷の戦いで8万ともいわれる大軍に敗れた。

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