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【日本人の心 楠木正成を読み解く】第4章 現代に生き続ける「楠公さん」 6

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飛騨高山に伝わる楠木正成像。飛騨の一刀彫りで、故郷の木を材料にしている(天照寺所蔵)
飛騨高山に伝わる楠木正成像。飛騨の一刀彫りで、故郷の木を材料にしている(天照寺所蔵)
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■飛騨の山里に伝わる師弟愛

 江戸時代の町並みが残り、「飛騨(ひだ)の小京都」と称される岐阜・高山。街の中心部から車で30分ほど走ると、滝町という山間(やまあい)の集落に出る。高山市に編入されたのは昭和30年である。

 楠木正成(くすのき・まさしげ)が少年時代に師と仰いだ滝覚(りゅうかく)(龍覚、瀧覚)の誕生地とされる集落だ。正成は8歳から15歳まで、河内(かわち)・観心寺(大阪府河内長野市)の支院である中院(ちゅういん)で、滝覚のもと、学問に励んだ。中院は楠木家の菩提寺(ぼだいじ)である。

 滝覚に関する史料はあまり残っていない。学術的に論じた書物としては、昭和12年に『大楠公恩師瀧覚御房史蹟』という冊子が出された程度だ。大阪府史跡調査委員らが滝町などを調査し、その成果をまとめたもので、冒頭で次のような話を紹介している。

 <今を去る約三十年以前、(略)山地開墾の際に「嗚呼(ああ)忠臣楠正成」と鐫(えら)せる小碑石を発掘した>

 明治38年、滝町に近い山口町で、正成の名が彫られた石碑が発掘されたというのだ。元禄年間のもので、徳川光圀が同じ時代に湊川(神戸)に建てた「嗚呼忠臣楠子(なんし)之墓」の碑をまねたのだろう。

楠木正成の恩師の滝覚像。飛騨の一刀彫りで、故郷の木を材料にしている(津島神社所蔵)
楠木正成の恩師の滝覚像。飛騨の一刀彫りで、故郷の木を材料にしている(津島神社所蔵)
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 この碑は山口町の楠木神社にあるとされるが、今は別の神社の御旅所になっており、碑の所在は分からない。楠木家の家紋「菊水」が刻まれた灯籠(とうろう)だけが、往時をしのばせている。

 「『飛騨高山まちの博物館』に、拓本が残されています。昭和9年ぐらいに取られたと推定されます」

 高山の郷土史研究家で、地元FM局のパーソナリティーも務める長瀬公昭さんはそう話す。拓本を見ると、碑は縦30センチ、幅8センチほどだ。

 滝覚と正成の絆を後代まで伝えたい-そんな先人の思いが、この小さな碑から感じ取れる。

 滝覚は、俗名を和田朝正(ともまさ)という。鎌倉幕府の初代侍所(さむらいどころ)別当(長官)を務めた和田義盛の曽孫とされる。地元の寺で修行した後、京に上り、故郷にちなんだのか、滝覚と名乗った。京で観心寺中院の院主と知り合い、正安(しょうあん)2(1300)年に中院へ。2年後に院主となった。そのころに正成が寄寓(きぐう)していた。

 『-瀧覚御房史蹟』は、滝覚の正成に対する師弟愛を記す。

 ▽赤坂城で挙兵した際、正成の妻子を預かるとともに軍事的な秘策も授ける。

 ▽千早籠城戦では食糧を支援。また住民と協力して傷病兵の手当てをする。

 ▽湊川への出陣が決まった正成の求めに応じ上京、後事を託される。その後、弟子を遣わし戦場の様子を探らせる。

 ▽正成戦没後は久子夫人を助けて一族を扶養。嫡子(ちゃくし)・正行(まさつら)らの後見役に。

 楠木一族を物心両面から支え続けた滝覚は、延元2・建武4(1337)年、73歳で入寂(にゅうじゃく)したと伝わる。湊川の戦いの翌年である。

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 「昭和10年5月には、滝町で滝覚600年遠忌が盛大に執り行われました。滝覚の祖先である和田氏の墓所に、石柵や標石が建てられたのもそのころです」

 和田氏の居館があったとされる辺りに立つ津島神社の宮司、栃原俊夫さんはそう話す。同年、近くの丘には大楠公600年忌を記念した供養塔も建てられ、法要に1500人が参列した。静かな集落が、大いに賑(にぎ)わったことが想像できる。

 津島神社には、滝覚の木像が伝わる。飛騨の一刀彫り「一位彫(いちいぼり)」で、滝町のイチイの木が使われている。

 また、高山の中心部にある天照寺には、滝覚像と同じ時期に彫られた正成像がある。

 「観心寺から、風で折れたクスノキの枝をもらい受けて彫ったものです」

 天照寺住職の銅島大衍(どうじま・だいえん)さんはそう説明する。それぞれ、故郷の木を材料にしていることは興味深い。

 2体はいずれも、高さ約30センチ。大日本楠公会飛騨支部が昭和16年に結成されたのを機に、岡田肥吉(こえきち)という高山の実業家が、地元の彫刻師・江黒亮聲(りょうせい)に依頼し、寄進したものだ。

 昭和18年、大楠公追弔法要が同寺で行われた際、2体そろって公開された。当時の新聞には、両像が並んだ写真が掲載されている。

 天照寺からほど近い善応寺には、大楠公供養碑が立つ。昭和17年の建立で、滝町の住民も協力し、観心寺から分けてもらった松や桜を周囲に植えた。

 「昭和37年、供養塔建立から20周年の法要を行った際、大勢の人が参列しました。戦後の楠公タブー視の風潮の中、盛大だったことは印象に残っています」

 善応寺前住職の中井滕岳(とうがく)さんはそう述懐する。飛騨高山で、正成が敬慕されたのはなぜか。長瀬さんは次のように指摘する。

 「滝覚が飛騨出身であることに加え、この地には新田義貞の家臣の碑など、南朝ゆかりの史跡が多くあります。そうした歴史が関係しているのは間違いない」

 長瀬さんによると、昭和43年まで市役所だった高山市政記念館の軒丸瓦には、菊水が描かれている。

 河内から遠く離れた山国で、楠公の余光に今も触れることができる。それは、滝覚と正成の師弟関係を、飛騨の人が誇りに思い続けたからに違いない。=毎週金曜掲載

 ≪滝覚の誕生地

 滝覚(りゅうかく)は「ろうかく」「たきかく」とも読み、龍覚、瀧覚とも書く。曽祖父に当たる和田義盛は、源頼朝を助け、鎌倉幕府の成立に功績があった。しかし、北条氏と対立して敗死。一族は飛騨の滝町に落ち延びたという。

 足利尊氏は室町幕府開設後、滝町に近い地域を直轄地にしたとされる。南朝側の動向を警戒してのことだ。死後なお滝覚の影響力が大きかったことを物語る。

 最近では、滝覚に興味を持つ児童もいる。地元の高山市立岩滝小学校6年、野中あゆみさんは、滝覚を自由研究のテーマにし、大阪の観心寺にも足を運んだ。この研究により、同市の「図書館を使った調べる学習コンクール」において2年連続、賞を受けている。伝統を大切にする心が受け継がれている。

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