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【門井慶喜の史々周国】≪富岡製糸場≫群馬県富岡市 メイド・イン・ジャパンの原点

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世界遺産登録五周年を迎えた富岡製糸場。技術指導者の育成も担い、日本の近代化を支えた=群馬県富岡市(筆者撮影)
世界遺産登録五周年を迎えた富岡製糸場。技術指導者の育成も担い、日本の近代化を支えた=群馬県富岡市(筆者撮影)

 秋は講演の季節である。私のような者のところへも全国のいろいろな団体や企業から話が来るのだが、その開催日は秋が多いような気がする。暑からず寒からず、雨の日が少なく、それに何と言っても「読書の秋」「芸術の秋」ということばもあるとおり、人々の心がどことなく浮世のせわしさを離れる季節だからかもしれない。

 先月(十月十九日)、群馬県の富岡製糸場をおとずれたときも秋晴れの空がさわやかだったが、しかしその七日前は、ちょうど例の台風十九号の来た日だった。さいわい建物は被害が軽微だったが、富岡市内では土砂くずれが発生し、亡くなった方もおられたという。

 台風さえ来なければ、講演に来てくれたかもしれない人々である。もっとも、話そのものは、つとめて明るい口調でした。何しろ世界遺産登録五周年である。その記念事業である。みんなで前を向くきっかけを作るのも、文化という、この一見すると何の役にも立たないしろものの重要な役割だと私はかたく信じている。

 講演のテーマは「官営工場」とした。主として明治時代に開業した、国有または国営の「ものづくり」の最前線。富岡製糸場もそのひとつであることはもちろんだが、考えてみれば「製糸」というのは、それ自体は近代産業でも何でもない。蚕(かいこ)の繭(まゆ)から糸をくりだし、何本かを撚(よ)り合わせて長い絹糸(きぬいと)にする仕事なら古代から存在しているし、徳川時代には農家の副業だった。歯車じかけの木製の機械でカタカタと糸をつむぐその軽やかな音は、全国どこでも聞かれたのである。

 それをわざわざ国家がやる。巨大工場をこしらえる。単なる生産効率の追求ならば民間企業にやらせるほうがよさそうだが、そこはそれ、生糸というのは、それ以前から日本の重要なというより主要な輸出物だったのである。

 外貨かせぎのたねだった、と言いかえてもいい。何しろ安価だったからヨーロッパで飛ぶように売れ、売れるから不出来なものも出まわった。

 現地では、

 --メイド・イン・ジャパンは、粗悪品の代名詞。

 というような評判も立ってしまう。これではだめだ、国が指導しなければという危機感からつまり富岡製糸場はつくられたわけだ。

 国がやるなら、目先の利にとらわれてはいけない。ゆくゆくは富岡のみならず全国ひとしく優良品を生産するのが理想なわけで、そこでまた、

 --模範工場。

 と称されることになった。生糸のほかにもうひとつ、技術者も生産すべしということだ。ここで世界最新の仕事をおぼえた女工が各地へ行き、それぞれ教え広めていく。教員養成機関ともいえる。

 長い目で見れば、これは大きな成功だった。日本はやがて生糸の総生産の四分の三までもが輸出へまわされるようになり、明治四十二年(一九〇九)には世界最大の輸出国となった。品質の評価も上昇した。第一次大戦後、世界経済の主導者はイギリスからアメリカに変わったが、そのアメリカの職業婦人たちが好んで使用したストッキングはおそらく原料が日本産だったろう。彼女たちの目はきびしいのである。もっとも、その「世界を制した」日本産も、いまはほとんど輸出がないという。

 理由はおもにふたつだろう。ひとつは人工繊維ナイロンの発明であり、もうひとつは人件費の低い国との価格競争。後者は複雑な感慨がある。かつて日本がヨーロッパを駆逐したのとおなじ理由で、こんどは日本が駆逐されるとは。

 歴史はくりかえさないけれど、歴史の要因はくりかえすのである。それでも「日本産」という看板そのものへの信頼は、これは駆逐されることはない。今後もそうだろう。その信頼がもともと生糸にはじまったものであり、そこからさまざまな分野へ展開したという産業革命の過程を考えると、富岡というこの山間の小邑(しょうゆう)はメイド・イン・ジャパンの原点といえる。亡くなった方の冥福をいのる。

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