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【歴史の転換点から】大獄に死す-松陰と左内の「奇跡」(6)松陰の「辞世」が覚醒させた

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吉田松陰を生んだ山口県萩市の名所・菊ケ浜の夜明け(関厚夫撮影)
吉田松陰を生んだ山口県萩市の名所・菊ケ浜の夜明け(関厚夫撮影)
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激論

 A「今後、英国かロシアが世界の盟主となるであろう。英国は悪賢くて強勢、かつどん欲である。ロシアは沈着で強大、秩序ある国だから、将来的に人望はロシアに集まることになろう。わが国は信用のおける隣国のロシアと兄弟になるべし。そしてその力を借りて富国強兵をはかれば、英国が攻め寄せても壊滅することなく、強国への道をひらくことができよう」

 B「ロシアはすきあらば満州や支那に手を出そうとし、インドにまで迫ろうとしている。英国は北海道や樺太をうかがいつつ、フランスと組んで朝鮮と台湾をねらっている。一方、米国は中国進出に代えて目を神州(日本)に向けている。そんななか、油断のならぬロシアへの接近は国の独立を危うくしよう」

 A「日本が独立を維持するには、満州や山丹近辺(中国東北部の黒竜江=アムール川下流域)や朝鮮半島に加えて米国大陸やインドにも領土をもたなければならない。とても無理な相談だ。だからロシアの『弟』となるべきなのだ」

 B「これまた意外な! 満州や朝鮮半島などへの進出については僕も考えたこともあったが、偏狭な愚論だ。いまは士民の貴賤を問わず賢才を登用して航海術をきわめ、海軍を起こして国防体制を整えるとともに、四海の隣国、また世界を相手に、先方から強制されるのではなく、対等な外交関係を結んで和親の条約を結び、そのもとで通商・貿易を盛んにして利を得る。それこそが国威奮興・材俊振起-つまり神州独立の道ではないか!」

一致と相違

 吉田松陰と橋本左内の考えには共通するところが多々ある。当時の学校制度は画一的な人材しかうまないとして不満をもち、英雄や賢才を輩出するような改革を求めていたことや独立論は異にしていても、「開国」(松陰は「航海雄略」と呼んでいた)という根本では一致していたこと-などはその一例である。

世界遺産「明治日本の産業革命遺産」を構成する松下村塾舎=山口県萩市椿東(関厚夫撮影)
世界遺産「明治日本の産業革命遺産」を構成する松下村塾舎=山口県萩市椿東(関厚夫撮影)
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 だが、松陰と左内がもし生前、両者が熱望していたように相まみえることがあり、対外政策がテーマとなったならば、前述のような激論があったことだろう。ちなみに発言者「A」が左内で「B」が松陰である。意外に思われる方もおられようが、いずれも彼らが残した書簡や意見書、遺著などをもとに筆者が構成している。

 ただここで左内のために釈明しておきたいのだが、彼には自分の外交・対外政策論を精査し、深めてゆく時間がなかった。彼がこのテーマについて持論を述べているのは安政4(1857)年末くらいまで。前後して越前福井藩主の松平春嶽(慶永)の側近として、当時最大かつ国論を2分する政治案件化していた将軍継嗣問題に携わり、1年あまりにわたって最前線で朝廷工作や幕府や薩摩藩、水戸藩といった雄藩との交渉に忙殺されることになる。

左内の弁明

 「実に寝食を忘れ、平常大好物の読書もなおざりにして(政治活動に)専念しております」

 “国事奔走期”がはじまったばかりのころ、左内は年長の同志にあてた書簡でそう報告している。その左内は安政5年の夏以降、病臥と1年弱にわたる江戸藩邸幽囚を経て、伝馬町牢屋敷に投獄されてからわずか5日後、処刑される。

 「左内に比べて」であり、「行動の自由はなかったものの」ではあるが、安政元年春に伝馬町牢屋敷に初めて投獄されて以降、松陰には約5年半にわたって自分の考えを修正し、深化させてゆく時間があった。

 だが、そのきわだった明敏さと若さのゆえ、刑場に臨むさい、牢名主が「なれるものなら貴様の代わりになってやりたい」と涙して送り出したと伝えられる左内のことである。もし生前、彼が本当に松陰と対外政策について議論することがあれば、わが国の独立やロシアへの評価について至らぬところは潔く認めたうえで、その考えを発展させていったことだろう。

「慶喜、人情にうとし」-冴える人物評

 松陰29、左内は26-。それぞれの享年(数え歳)である。より短い人生のなかで、左内は松陰ができなかったことを経験している。国内政治のキーパーソンたちとの知遇や彼らについての一次情報を得ることができたことである。

 「ご尊父の老公(水戸斉昭)のような直情径行ではなく、物事を深く洞察できる御方だ。ただ少し人情にうといところがある…」。一橋慶喜(後の15代将軍)に対する人物評である。後世の歴史家や研究者たちが何年もかけて文献を読み解き、実証しようとした慶喜や斉昭の人間性を見事に突いている。

 また、敬愛してやまない藩主、松平春嶽についてでさえ「従来理屈の学問のみあそばされ、真のご見識はいまだ確立されていない」と分析するくらいである。「お役人風」(幕府軍艦奉行の永井尚志)「胸中に遠大な策があり、実に感心するが、細かいことに弱い」(開明派の幕臣で外交交渉の第一人者だった岩瀬忠震)といった小気味よく、「言い得て妙」の観がある評は左内の人物眼の鋭さをいまに伝えている。

 「燕趙悲歌(憂国)の士なり」。安政3年春、左内は親交のあった西郷隆盛をそう評した。同じころ、左内は自身について「生まれながら多病」としたうえで「いまは憂国の念という病に日夜苦しめられています」と福井藩高官につづっている。志をともにし、深い友情に結ばれたということだろう。西郷はその最後の日まで、左内からの1通の書簡を皮の文書箱に入れて携行していたという。

「君を崇めて夷払へよ」-恐るべき「辞世」

 「憂国」ならば、松陰も左内や西郷に勝るとも劣らないだろう。さてその悲歌の士・松陰はどのような「国のかたち」を描いていたのか、である。

 「近年のうちに大老・井伊直弼(なおすけ)、老中・間部詮勝(まなべ・あきかつ)ともに失脚するだろう。その後、朝廷によき関白を得て幕府と一致協力できればすばらしい」

 刑死の1週間前、松陰はまな弟子にそう書き送っている。だが、これをもって松陰を公武合体論者とするのは早計である。

 「討たれたる吾をあはれと見ん人は君を崇(あが)めて夷(えびす)払へよ」

 刑死前日に書き上げた遺著『留魂録』の末尾に記された5首のうちの一つである。下の句の前半部「君を崇めて」は尊王、後半部の「夷払へよ」は攘夷を指すことに異論はないだろう。

 松陰の予想通り、半年のうちに間部は老中辞職を余儀なくされ、井伊は桜田門外の変に斃(たお)れる。朝廷に対する最強硬派だったこの2人が幕閣から退場して以後は、幕府が朝廷に歩み寄ったため、松陰の悲願だった尊王攘夷のうち「尊王」については幕府と諸藩、草莽(そうもう)の志士との間に差がなくなってきた。が、問題は「攘夷」である。

 徳川幕府将軍が朝廷から与えられた職名は征夷大将軍-つまり「夷を征(う)つ将軍」である。ところが、幕府は征ちも払(攘)いもしないどころか、夷である欧米の力を借りて雄藩を抑えつけようとさえしている。そんななか、松陰を「あはれ」に思い、その「辞世」を実現しようとするかのように攘夷にひた走り、存亡の淵まで追い詰められた後、松陰のまな弟子、高杉晋作によって起死回生をなしとげ、明治維新の推進役となったのが、長州藩だった。

「攘夷」の意味

 ここで松陰のいう「攘夷」とは何かを考えてみよう。開国を是とする松陰が排外主義から攘夷を唱えるだろうか。彼の「攘夷」は、欧米列強から不平等条約を強いられることなく、対等な外交関係を、徳川家ではなく日本国のために打ち立てることが究極の目的だったはずだ。

 幕府にそんな「攘夷」を実行する気配はない。ならば有志が幕府に代わって実行するしかない。この「攘夷」のエネルギーは、長州藩や薩摩藩が実際に欧米と戦火を交えることを経て、「討(倒)幕」のエネルギーへと昇華されてゆく。

 はたして松陰がそこまで見越して、あるいはそんな秘めた思いをもって前述の「辞世」を詠んだのか否か-。筆者はまだ答えをもたない。が、この一首を残しただけでも彼は幕末維新史上、最も恐るべき人物だったといえるだろう。

(編集委員 関厚夫)

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