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【文芸時評】10月号 早稲田大学教授・石原千秋 芥川賞に未来はない

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 東京は渋谷の「Bunkamuraザ・ミュージアム」で「みんなのミュシャ」展を観(み)てきた。アルフォンス・ミュシャが、女優サラ・ベルナールの専属デザイナーとしてポスターを描き、「ミュシャ様式」と呼ばれる独特の画風を確立するまでに、実に多くの影響を受け続けたことがよくわかった。そしていったん「ミュシャ様式」が確立すれば、時空を超えて影響を与え続ける。波打つような長い髪の女性が円い輪に囲まれて美しい花で飾られるあの様式は、日本でも与謝野晶子『みだれ髪』の表紙や、『明星』その他の多くの雑誌の表紙を飾った。いまでは多くのマンガに影響を与え続けている。「模倣」であることはまちがいないが、すでに一つの「様式」となっているから「盗作」とは言わない。でも、明治の日本の場合はどうなのだろうと、ふっと思った。

 「芥川賞選評」(文芸春秋9月)を読んだ。今回の芥川賞については、小谷野敦の発言に賛成する(倉本さおりとの対談「芥川賞について話をしよう」『週刊読書人』9月13日)。受賞作は今村夏子『むらさきのスカートの女』だが、この作品よりすぐれている『こちらあみ子』で受賞とすべきだった。最近「もう少し様子を見よう」という雰囲気が強すぎる。直木賞は人に与える賞だが、芥川賞は作品に与える賞だ。選考委員に「作品を歴史に刻み込む」という使命感がないのではないか。

 古市憲寿「百の夜は跳ねて」に関して小谷野敦は、いつも厳しい自分から見ても、「ちょっと厳しすぎます」と言う。木村友祐「天空の絵描きたち」(文学界・平成24年10月号)を「参考文献」に挙げ、同じ高層ビルの窓拭きをテーマとしていることに対して、山田詠美「真似(まね)や剽窃(ひょうせつ)に当たる訳(わけ)ではない。もちろん、オマージュでもない。ここにあるのは、もっと、ずっとずっと巧妙な、何か」だとか、川上弘美「ものを創り出そうとする者としての矜持(きょうじ)に欠ける行為」だとか、吉田修一「盗作とはまた別種のいやらしさ」だとか、堀江敏幸「参考文献にあげられた他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか」だとか、ほとんど人格否定。奥泉光だけが、そもそも小説とは「外にあるさまざまな言葉をコラージュ」するものだとまっとうな論理を述べて支持している。人格否定論者にはミュシャ展でも観てきたらいいと言いたくなる。どんな芸術家でもはじめは誰かに似ているものだ。そのプロセスを全否定したら、芸術家など育たない。

 木村友祐「天空の絵描きたち」は、安里(あさと)小春が常に死とともにある窓拭きの同僚と働くが、ついに同僚の一人・権田が転落死。会社は責任逃れのためにヒューマンエラーにしようとする。権田は、自分たちなどすぐに忘れられる存在だと語っていた。ただ死ぬために高いところで仕事をしているかのような、大都会の「プア」な人々を書く。一方、古市憲寿「百の夜は跳ねて」は、田中康夫『なんとなく、クリスタル』よろしく多くのモノの名を書き込み、主人公にとって高さは古代の国見(見ることで国を治める)であるかのような感覚を持つ「リッチ」な世界である。吉田修一はタワーマンションの高層や内側を上位に位置づける主人公を「もちろんこのような凡庸で差別的な価値観の主人公を小説で書いてもいいのだが、作者もまた同じような価値観なのではないかと思えるふしもあり、とすれば、作家としては致命的ではないだろうか」と「政治的正しさ」風の「凡庸」さで批判する。吉田修一は何のために木村友祐「天空の絵描きたち」が「参考文献」に挙げられているかがわかっているのだろうか。「プア」から見た「リッチ」がどれほど空(むな)しいかを読んでほしいというサインではないか。そんなことさえわからない選考委員たちが居座る芥川賞に未来はない。

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