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京都・鴨川の洪水、御土居破壊と幕府の新堤が原因か

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江戸時代の洪水跡が出土した調査地。奥の壁面に白い砂の層が確認される=京都市中京区(昨年11月8日撮影)
江戸時代の洪水跡が出土した調査地。奥の壁面に白い砂の層が確認される=京都市中京区(昨年11月8日撮影)
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 京都市中京区の繁華街で、約300年前の江戸時代に起きたとみられる鴨川の洪水跡が出土した。平安京跡で鴨川(賀茂川)の洪水跡はしばしばみられるが、この辺りで見つかったのは初めて。安土桃山期に豊臣秀吉が都の周囲に築いた土塁「御土居(おどい)」を、徳川幕府が市街地開発のため破壊したことが原因とみる専門家もいる。

御土居の破壊

 民間調査会社「イビソク」が、建物建設予定地の三条高倉交差点北側約330平方メートルを調査。足利尊氏とその弟、直義らの拠点だった当時の池の可能性が残る石敷き遺構のほか、その上層から江戸時代の1700年前後に起きた鴨川の洪水跡とみられる砂礫(されき)層が数十センチの厚さで出土した。

 現場は、平安京の左京三条四坊五町にあたる。鴨川は昔から「暴れ川」として知られ、京都の住人はたびたび氾濫に悩まされた。京都市内の各所でその痕跡が出土しているが、今回の調査地一帯では初の確認だ。

 中村武生京都女子大非常勤講師(歴史地理史)は「豊臣秀吉が築いた御土居が防災の役割を果たしていたが、江戸幕府が行った鴨川沿いの開発によって御土居が崩されていった結果」と話す。

 中村氏によると、徳川幕府は17世紀初めごろに鴨川河川敷の開発を始め、御土居の外側の市街地化に乗り出した。敷設した道路を御土居の内側の道路とつなぐため、「邪魔だった」御土居を削ったという。結果、御土居のいたる所で穴が開くことに。その状況は、当時の絵図にも描かれている。

新堤で川細く

 鴨川洪水の別の原因を指摘する専門家もいる。立命館大の吉越昭久名誉教授(自然地理学)は「寛文年間に幕府が鴨川で行った新堤の建設にも原因があった」とみる。

 石積みの新堤は寛文10(1670)年に今出川-五条間で完成。しかし、御土居の高さが地面から約5メートルだったのに対し、石積みの高さは市街地の川からの高さと同じ約1・8メートルだった。

 鴨川では初の本格的な堤防だったが、吉越氏は「堤防ではなく、護岸と解釈した方がふさわしい」とする。

 新堤建設により、川幅は平安時代の3分の1に狭められた。その結果、上流域から運ばれた花崗岩(かこうがん)からなる真砂土が川底を押し上げたことで、鴨川はより洪水が起きやすい構造になったという。

 御土居の外側の開発と鴨川の新堤建設は、川沿いで都市化を進めた半面、「防災力の弱体化を招いた面は否定できない」と吉越氏は指摘する。鴨川の洪水回数が1551年からの50年間は0回だが、1751年からの50年間は約15回といい、数字にもその傾向は如実に表れている。

 吉越氏は「新堤建設の目的は新しい土地の有効活用にあり、洪水への備えという面では役割を果たしていなかったといえるのでは」と話している。

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