【正木利和の審美眼を磨く】「中国のセザンヌ」は日本で名を上げた
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さて、上手なのか、へたなのか。どちらに軍配をあげていいのやらわからない画家ほど気になるものである。キャッチコピーは「中国のかわいい水墨画、北京から京都へ」。京都市東山区の京都国立博物館( https://www.kyohaku.go.jp/ )で開催されている斉白石(せいはくせき)の回顧展のことである。
たとえば、「松鷹図」。どこかユーモラスな鷹の顔に視線がとらわれるが、よく見て行くと、ふわふわとした羽の質感や鋭い爪で枝をつかむ姿は、対象を丁寧に観察していなければ決して描くことのできないものだとわかる。
筆をさっと素早く動かして描いた松の木の幹と枝も後方の幹を薄い墨、前にある枝を濃い墨を使って表現することで、遠近感を演出している。
おおざっぱなようでいて、実は画家の細やかな神経が見て取れるのである。
そうした細やかな神経は、ハチやバッタなど虫やエビ、カニなどの絵の描き込み方をみていれば、より明確になるに違いない。
たとえば「工虫画冊」のなかの黒いアゲハは、画面から飛び出てくるかのようなリアリティーをもっている。
素朴にして繊細な絵。それを生んだ画家は、どういう人物だったのか。
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斉白石は清時代1863年に生まれ、1957年に亡くなった清朝末期から現代にかけての画家であり、書家、篆刻家である。
湖南省の貧農の出で、白石山人は号。初名は純芝、のちコウと改めた。幼いころは子守や芝刈りをしながら過ごしたといわれ、13歳のときに指物大工のもとに弟子入りさせられている。のちに画家となっても別号に「木人」や「木居士」を名乗っているのは、木工出身であるということを忘れないためだといわれる。
20代初めには画譜を自習して肖像画を描いたりしていた白石が画家を志したのは27歳のとき。遅咲きの画家が絵を売って生活できるようになったのは30歳を過ぎてからのことだ。
白石が影響を受けた画家は八大山人(1625~1705年)であるといわれる。明の遺臣の息子で、父の遺志をついでろうあ者を装い僧侶になった八大山人の絵は、清朝に対する抵抗の精神が強くにじみ、魚は目をいからし、鳥もまた目をむいて天を仰いでいる。
しかし、このころはまだ美人画を得意とし、「斉美人」の名が残るほどであった。白石が全国を遊歴、売画と刻印で生計をたててゆくようになるのは40歳を過ぎてからだった。
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彼の画名を上げたのは、実は日本での展覧会がきっかけだったといわれる。1922年の「日中連合絵画展」である。
伝統的な山水画が多いなか、白石のはっきりした構図が、当時の日本で絶賛されたといわれている。
それにより、日本でコレクターが増え、さらに「パリ芸術展覧会」に出品されたことなどで、美術市場での彼の作品の値は、一挙に100倍以上となったとされる。
北京画院の周蓉氏の「斉白石と20世紀日本の美術界」という論文では、日本で書家、篆刻家として有名だった呉昌碩(1844~1927年)と比較研究されたことや、明快で沈着な画風が当時日本で人気のあった後期印象派のセザンヌに似ている、として「中国のセザンヌ」と評されたことなどが、白石人気を高める背景にあった、とする。
そうした日本での人気が、排他的だった当時の北京画壇にあった白石の地位を押し上げていったというのである。
たとえれば、ロックバンド「クイーン」が日本での異様な人気をきっかけにスーパースターの道を歩んでいったようなものであろうか。
戦後、中華人民共和国が成立したあとも人民芸術家として、その功績をたたえられ多くの賞を獲得した。
まさに、中国立志伝中の画家だったといってもいい。
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極めて個人的なことながら、白石の絵を見ると、ほんとうはため息をつきたくなってくるのである。
もう20年ほど前に、京都の古美術商で呉昌碩の絵と並んだ白石の絵を見たことがあった。
呉昌碩の絵はシャクナゲで、色彩も豊か、200万円近くした。一方、白石の絵は厨房(ちゅうぼう)にカモがつり下げられた絵で、75万円ほどだった。
「白石なら手に入る」
と、思ったが、絵のテーマがいまひとつだったこともあって結局、あきらめたのである。
しかし、かの国の経済発展にともない、近ごろではぐんぐんと値上がりしたというではないか。
「その当時とはケタが2つ違いますからねえ」と同館学芸部列品管理室の呉孟晋(くれもとゆき)主任学芸員。
確かに、文化大革命という政治の暴挙によってさまざまな文化財を失ったひとびとが豊かさを手に入れたとき求めるのは自己を確認するための文化財に違いない。
ああ、のがしたあのカモはとてつもなく大きかったのだ。
もちろん、この日、「あとの祭り」をとぼとぼとした足取りで見て回ったのは、いうまでもない。
斉白石展は、3月17日まで( https://www.kyohaku.go.jp/ )。
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【プロフィル】正木利和(まさき・としかず) 産経新聞文化部編集委員。入社はいまはなき大阪新聞。産経新聞に異動となって社会部に配属。その後、運動部、文化部と渡り歩く。社会人になって30年強になるが、勤務地は大阪本社を離れたことがない。その間、薄給をやりくりしながら、書画骨董から洋服や靴、万年筆に時計など、メガネにかなったものを集めてきた。本欄は、さまざまな「モノ」にまつわるエピソード(うんちく)を中心に、「美」とは何かを考えながら、つづっていこうと思っている。乞うご期待。