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【倒れざる者~近畿大学創設者 世耕弘一伝】(11)「学生のわれわれも心配でならないから」…母校の大学昇格のため募金活動

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大正9年5月16日に日本大学の新校舎で開かれた昇格祝賀会当日の受付風景(日本大学広報課提供)
大正9年5月16日に日本大学の新校舎で開かれた昇格祝賀会当日の受付風景(日本大学広報課提供)

 世耕弘一が日本大学予科で学んでいた大正9年4月15日、日大は大学令に基づく認可を得た。専門学校の位置付けから私立大学に昇格したのだが、それまでには資金調達の壁が立ちはだかった。

 大学令によると認可された大学は単科だと50万円、1学部を加えるごとに10万円の基本財産を供託しなければならなかった。法文学部と商学部の2学部の設置を申請した日大は60万円の供託金を必要としたが、それも設立認可の指令を受けた日から「3週間以内」と期限がついていた。

 日大は今でこそ、日本最大規模の総合私立大学として知られるが、当時は規模が小さかった。認可申請の際に文部省に提出された書類によると、学部学生数は650人。慶応義塾大が2850人、早稲田大は2300人の学部学生を擁しているのとは比べようもなかった。

 弘一が当時について記した「昇格運動の憶(おも)い出」によると、日大も大学令に基づく大学に昇格するため、日大経営の実質的な中心人物だった理事の山岡萬之助(後の学長・総長)が計画を立て、資金集めや設備の拡充に奔走していた。

 この母校の一大事に際し弘一は行動に出た。

 「学生であるわれわれも心配でならないから…」

 弘一らが主唱して学生で募金運動を繰り広げた。金を集め、山岡に「3万円くらい」を持っていった。実際は、有力者の3万円程度の寄付の約束だったといわれる。

 「ぜひ、他の大学に遅れないように昇格をやってもらいたい。学生も少ないながらも募金したものをまとめてきました」

 弘一たちがこう申し出ると、山岡は喜ぶとともにこう言った。

 「諸君の熱意はまことにありがたいが、大学も努力しているので間違いなく昇格するから安心しろ」

 このため学生側は引き下がったが、山岡の言葉とは裏腹に日大は昇格に苦労していたようだ。

 「日本大学七十年の人と歴史」によると、大学令が施行された8年4月ごろには慶大と早大の昇格が内定し、明治、中央、法政、国学院、同志社も同年9月ごろまでには内定していたという。

 〈八年二学期の半ばに至っても尚(なお)昇格未定であり、年末頃からは「とても昇格は出来ないだろう」と噂(うわさ)され、それが校友間ばかりではない学内のある教授の如(ごと)きは講堂で学生の面前で本学は昇格は出来ないだろうと冷笑する者さえあった〉

 日大関係者の回顧録の記述は厳しい情勢を物語る。結局、日大の供託金は5カ年の分割で納付することで決着した。こうして日大は大学令に基づく私立大学となった。 (松岡達郎)=敬称略

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