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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】早雲在城の証し「新九郎谷」 柏久保城(伊豆市)

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柏久保城跡に建つ北条早雲顕彰碑の後方には、幅2メートルの分厚い土塁が残されている=静岡県伊豆市柏久保
柏久保城跡に建つ北条早雲顕彰碑の後方には、幅2メートルの分厚い土塁が残されている=静岡県伊豆市柏久保

 北条早雲の伊豆乱入(討ち入り)は明応2(1493)年10月、まず夜襲により堀越御所に襲い掛かり、(足利)茶々丸は不意をつかれて討たれたと、『北条五代記』では1カ月ほどで伊豆国を制圧したとするのが従来の説であったが、実際はそんな簡単な侵攻ではなかった。

 明応5年に伊豆の郡代官で山内上杉家の家臣、伊東佑遠が早雲に従属。翌6年4月には土豪の大見三人衆(佐藤藤左衛門・梅原六郎左衛門・佐藤七郎左衛門)が居城の大見城(伊豆市柳瀬)から出撃、柏久保城を攻めていた茶々丸派で最大勢力の狩野氏を、背後から襲い撃退した。「狩野氏を撃ち破り、たのもしい」とする内容の文献が「早雲判物写」に残されている。

 早雲の侵攻は早い段階から伊豆西海岸の海賊衆(山本氏・富永氏・高橋氏・鈴木氏)を味方に引き入れ、有力武将の伊東氏らを懐柔していた。抗争の主な舞台は中伊豆地域だが、抵抗勢力の狩野氏との戦いは東西の“外堀”を埋めて挑んだと考えられる。

 茶々丸の死を伝える史料の『王代記』には「明応7年戌午八月伊豆御所(茶々丸)腹切玉ヘリ、伊勢早雲御敵ニテ」とある。切腹した場所は解明されていないが、茶々丸派の狩野氏や関戸氏との熾(し)烈(れつ)な戦いは5年に及んだ。

 早雲の軍事基地としていた柏久保城は、狩野氏の狩野城から北5キロ地点にあり、大見三人衆の大見城は東に約5キロに位置する。

 柏久保城跡は伊豆箱根鉄道の修善寺駅東側、愛宕山(標高180メートル)の山上にある。城郭は東西100メートルと小規模であるが、最大の特色として敵方・狩野城の南側に向けられた幅2メートルの分厚い土塁が歴然と残存し、健全に保存されている。この土塁南直下は高さ10メートル以上の切岸となる堅(けん)牢(ろう)なもので、早雲が攻め寄せたとされる北側の谷を「新九郎谷」と称していることも、早雲在城を伝える生証人として興味深い。

 (静岡古城研究会会長 水野茂)

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