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【話の肖像画】東京ガス会長・岡本毅(2) 新聞社の支局が住まいだった

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東京ガス会長・岡本毅(2) 新聞社の支局が住まいだった

話の肖像画更新
産経新聞津支局長を務めた父、賢三氏(中央)や支局員らと(手前右から2人目)=昭和30年(本人提供) 1/1枚

 〈昭和22年、京都府で生まれた。父親(岡本賢三氏)は産経新聞記者で、昭和30年から約6年間、津支局(三重県)や大津支局(滋賀県)の支局長を務めた。小学2年から中学2年の多感な時期の遊び相手は新聞記者だった〉

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 当時の支局は約10人が勤務し、1階がオフィスで2階は支局長と家族の住まいでした。だから、階下に降りていき、うろうろしていると、時間のある若い記者が「最近どうだ、毅君」といって遊んでくれました。事故や事件で緊迫すると、記者が原稿用紙に鉛筆でわーっと記事を書いてほうり出す姿も間近で見ました。夏休みなどを伝える写真の被写体になり、紙面を飾ったこともありました。

 一つだけ覚えている大事件が、31年10月に国鉄六軒駅(三重県)で起きた機関車の衝突事故です。(脱線で線路をふさいだ車両に、逆方向から来た機関車が突っ込み)死者42人を出した大事故でした。当然、支局内はものすごい騒ぎでした。機関車が横転していたり、血の痕が残っていたりする事故現場の写真などがどんどん入ってきて、当時、私は小学3年でしたが、新聞社の仕事とはこういうものなのか、と思ったのを覚えています。

 〈その後、家族で東京に居を移し、都立青山高校、一橋大学で学んだ。父や支局員らの姿を見て育ち、新聞記者という職業へのあこがれもあった〉

 緊迫した新聞社特有の雰囲気の中で、仕事中の父が電話をかけたり、指示を出したりしている姿を見て、格好いいなと思った記憶があります。新聞記者は仕事として面白いだろうな、と思ったこともありました。

 ただ、家庭という面では、父の休暇中に家族で温泉旅行に行ったときに、(事故などで)急に呼び戻され、母と弟と3人で取り残されて寂しかったという記憶もあります。だから、母には「家族を犠牲にするから記者にはならないで」と言われました。

 また、実際に就職を考えた際に知人から、「記者は若い頃はイメージ通り取材で走り回っていても、管理職になると現場から離れていくから覚悟が必要だ」とも言われました。結局、母の助言に従って、新聞記者になるのはやめました。

 〈一橋大経済学部を卒業後、45年4月に東京ガスに入社した。いまは経営者として記者に取材される立場だ〉

 就職先は広域的で使命の大きい会社で仕事をしたいと思い、インフラ企業を選びました。父が早くに亡くなっていたので、母の近くにいられる東京の会社にしようと考えたことも理由です。もう一つ、ガス会社なら海外に行くなど面倒なことも少ないだろうと思っていましたが、これは(液化天然ガスを海外から調達する)原料部に配属されて、ちょっとあてが外れました。

 今は経営者として取材される立場から記者を見ていますが、記者のイメージは昔も今も、あまり変わりません。

 かつて支局の記者が知事や県警本部長に会いに行くなどと言うのを聞いて、「偉い人に会えるんだな」と思っていましたが、今考えると、会ってもなかなか話をしてもらえず、苦労して取材していたんだろうなと思います。今でも若い記者たちと話すときに「(新聞記者は)本当に大変だよな」と声をかけると、必ず話が弾みますね。(聞き手 会田聡)