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スイス公使の謎の電報、米英方針確認? 終戦決断、根拠の一つか

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スイス公使の謎の電報、米英方針確認? 終戦決断、根拠の一つか

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「軽井沢爆撃するな」=国体護持の見方

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 長野県軽井沢町に疎開していたカミーユ・ゴルジェ公使をはじめ、スイスの外交当局が2カ月弱の間に19通も「イミュニテ カルイザワ」(軽井沢を爆撃しないでほしい)という謎の電報を交換したことが15日、明らかになった。中立国スイスが仲介役として米英から国体護持(天皇制維持)ができることを聞き出して日本側に伝え、昭和天皇が確信をもって終戦決断の根拠の一つとした可能性もある。(編集委員 岡部伸)

 戦時中、軽井沢町の「深山荘」に疎開したスイス公使館は外交団の中心で、連合国と交戦状態にあった日本はスイスを通じて交渉。スイスは日本で米英豪などの利益代表を務める一方、こうした国々では日本の利益代表を務めた。開戦で双方の国に取り残された民間人の交換交渉や捕虜の問題も話し合った。

 ゴルジェ公使が最初に「イミュニテ カルイザワ」との電報を本国に送ったのは昭和20年6月8日。5月8日にドイツが崩壊して1カ月が経過し、御前会議で本土決戦の方針が確認された一方、6月9日には木戸幸一内相が「時局収拾対策試案」(ソ連仲介工作)を報告してひそかに戦争終結に向けた動きが出ていた。日本側の戦争終結の条件は国体護持だった。

 7月20日の米英からの最終回答は「英国外務省は、日本への爆撃は、アメリカ当局がもっとも関心のあるところであり、それが故に、かれらはコンタクトした」。「軽井沢を爆撃しないでほしい」という要請に対する回答としては、「ほとんど何も意味をなさない」との指摘が出ている。

 しかしスイス政府はこの最終回答に対し、「光栄です」「喜んで」「このような内容をお教えいただきありがとうございました」と好意的に反応しており、スイス側が最終回答を通じて米英から国体護持に関するメッセージを受け取った可能性が指摘されている。

 この直後の26日にポツダム宣言が出され、30日に「イミュニテ カルイザワ」と書かれた最後の電報がベルンからワシントンの公館に送られている。

 今年刊行された「昭和天皇実録」には、「自ら戦争終結を決意した」「国体については(連合国も)認めていると解釈する」と記されており、昭和天皇が国体護持を確信して戦争を終わらせたことは明らかだ。

 昭和天皇が天皇制維持の確信を抱いた根拠はこれまでいくつか指摘されている。例えば、ドイツ降伏後の5月8日から8月4日まで14回にわたり、米国のザカリアス大佐が「主権は維持される」などと、天皇制存続を認める可能性があることを短波放送で伝えたことはその一つとされる。

 軽井沢町の藤巻進町長は「終戦に軽井沢町とスイス公使館が果たした役割が解明されることを期待したい」と話している。

スイス当局の符号

 昭和史に詳しい作家、半藤一利氏「『イミュニテ カルイザワ』はスイス当局の符号だったのだろう。『国体(皇室)をつぶすな』の意で使用していたと解釈すれば、ゴルジェ公使を通じて中立国スイスが米英に『国体護持』の可能性を打診し、和平交渉を行っていたことになり、興味深い。スイス本国からゴルジェ公使を通じて米国の皇室保持の方針が東郷茂徳外相らに伝わっていたならば、ザカリアス放送などとともに天皇が阿南惟幾陸相に『確証がある』と語り、終戦を聖断した根拠の一つとなった可能性がある」

【プロフィル】カミーユ・ゴルジェ 1893年生まれ。第二次世界大戦中、駐日スイス公使を務めた。1924年から27年まで日本の外務省に法律顧問として赴任。日本に魅了され、13年後の40年に希望して公使として再び日本に着任した。41年に日米戦争が始まると、スイスが中立を維持したため終戦まで赴任を続けた。終戦後はスイスに帰国し、78年に亡くなった。