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【日曜に書く】論説委員・川瀬弘至 沖縄の子供たちに日の丸を

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嘉手納基地=2010年5月2日午前、沖縄県嘉手納町 (本社ヘリから 門井聡撮影)
嘉手納基地=2010年5月2日午前、沖縄県嘉手納町 (本社ヘリから 門井聡撮影)

 手元に、「沖縄の子ら」という書籍がある。沖縄返還の6年前、昭和41年に日本教職員組合と沖縄教職員会の共同編集で刊行された、沖縄の子供たちの作文集である。

 その巻頭、「祖国の友だちへ」と題した作文で、中3男子が呼び掛ける。

 「本土のみなさん。同胞の住んでいる沖縄をご存知ですか。(中略)私たちの住んでいるこの沖縄は、太平洋戦争で祖国日本のために多くの犠牲を払いました。祖国防衛のために、日本民族を守るため、母国をみじめな姿にさせないために、私たちの先輩たちは、貴い命を国家に捧(ささ)げたのです」

 以下、作文は戦争の悲惨さと、戦後も米軍の支配下に置かれた沖縄の怒り、悲しみをつづり、「本土のみなさん、私たちは永遠に訴え続けます。一日も早く祖国に帰れる日が来るのを」と結ぶ。

「立派な日本の子」

 保守系団体が編集したのではない。日教組と沖縄教職員会である。だが内容は、「母なる日本」への愛情に満ちあふれている。中でも胸を打つのは、国旗への熱い思いだ。

 「日の丸、それはわが国のしるしです。シンボルです。わが日本国民には、日の丸という、りっぱな国旗があります。旗の中心の赤い丸は、角がなく、平和の象徴だといわれています」(中1男子)

 「日のまるの はたが、ゆっくり あがりました。それを みて、ぼくの そばに いた どこかの おばあさんが、なきそうな かおに なりました。ほかの 人たちも みんな めを ぱっちり あけて、日のまるの はたを じいっと みて、とても しずかに なりました」(小1男子)

 沖縄では戦後、長く国旗の使用が制限されていた。昭和27年に一般家屋での掲揚は認められるが、政治集会や公共施設では禁止され、完全に自由化されるのは45年だ。その間、沖縄の教員たちは本土から日の丸をかき集め、広く配布してその意義を教えた。日本人たれ、祖国を忘れるなと言い聞かせた。

 作文集のエピローグを書いた中1女子が訴える。

 「『私は日本の子だ。立派な日本の子なのだ。』国旗を門前に高くかかげ、堂々と、そうさけびたい」

やがて革新一色に

 いま、こんな作文を書けば「平和学習」のやり直しを指示されるだろう。

 あの頃の沖縄は、どこへ行ってしまったのか。

 責任の過半は、本土の保守陣営にある。47年に沖縄返還が実現したとき、広大な米軍基地は残され、県民は深く失望した。むろん、日本を取り巻く安全保障環境を考えればやむを得ない措置だ。しかし、それをどれだけ親身になって県民に説明してきたか。本気で沖縄に寄り添ってきたと言えるか。

 対して、革新陣営が深く沖縄に入り込んだことを認めないわけにはいかない。やがて教育界や言論界は革新一色となり、沖縄は急速に左傾化する。復帰のシンボルだった日の丸は戦争のエンブレムと化し、「貴い命を国家に捧げた」とする思考もタブーとなった。

 今年6月には、国立沖縄戦没者墓苑のホームページにあった「国難に殉じた戦没者」との表現が、“戦争美化”との批判を受けて削除される問題も起きている。

本気で寄り添おう

 「沖縄の子ら」に戻ろう。中学3年、平田正子さん(仮名)の作文である。

 ある日の夕方、正子さんは市場へ「おつかい」に行く途中、物悲しいギターの歌声に足を止める。

 全盲の傷痍(しょうい)軍人だった。

 正子さんは、逃げるようにその場を離れた。ポケットに入れた手には、25セントの小銭が握られていた。戦争でお父さんを失い、お母さんが一人で、正子さんをはじめ5人の子供たちのために稼いでくれた、大切なお金の一部である。

 でも…、正子さんは再び足を止める。

 「国のためにつくそうと、いっしょうけんめい戦った兵隊さんが、今こうして、目が見えなくなってもいっしょうけんめい働いて、そして、少しでもより良い生活を求めようとしているのだ」

 正子さんは、「夢中でさっきの場所にもどった。そこには、まだかなしい声があった」-。

 保守よ、沖縄に寄り添え。そして子供たちに誇り高き日の丸を。(かわせ ひろゆき)

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