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【日曜に書く】論説委員・河村直哉 学術会議の変わらない戦後

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日本学術会議の建物=東京都港区
日本学術会議の建物=東京都港区

 戦後史で政治家と学者の対立というと、昭和25年5月、首相の座にいた吉田茂が東大総長、南原(なんばら)繁に放った「曲学阿世(あせい)の徒」という言葉を思い出す。

現実と理念

 公平に見て吉田発言は暴言に類する。曲学阿世とは真理を曲げて世におもねることだが、南原はそれほど軽薄ではない。

 一方で吉田のいらだちも分かる。日本は敗戦後の占領下にあった。世界では自由主義と共産主義の対立が激化していた。自由諸国といわゆる単独講和を結ぶか、共産陣営を含んだ全面講和かが議論されていた。

 南原は全面講和を主張し、単独講和に向かう政府を批判していた。南原だけではない。知識人グループは平和問題談話会を作り、全面講和を求める声明を雑誌「世界」(25年3月号)に載せた。

 政治学の丸山真男ら、進歩的知識人と呼ばれる人が名を連ねている。声明は「憲法の平和的精神」を守る限り、「進んで二つの世界(自由・共産両陣営)の調和を図る」べしとした。

 吉田は現実に即した政治家だった。自由陣営に入ることは日本にとって現実的な選択だった。吉田は南原の全面講和を「学者の空論」とも批判し、南原は「弾圧」と反発した。

 談話会は「世界」の同年12月号にも「三たび平和について」という論文を載せた。憲法の精神を肯定し、「自国または他国による武装に安全保障を託するような考え方こそ、却(かえ)って安易な楽観論である」とした。

戦争への反動

 これは戦後日本に長く流布した、非武装による平和という現実離れした理念である。現実論と、空論とはいわぬまでも一種の理念論の対立を、吉田-南原のやりとりに見ることができる。共産主義国のその後を思えば吉田の選択が正しかった。

 理念論の背景には戦争への反動がある。そのころ南原はこう述べている。「新憲法は擁護されなければならない。(略)国家主義と、軍国主義とを清算し、新しく国際社会の名誉ある一員として、日本の生きゆく道は、これよりほかにはないからである」(「人間と政治」)

 「三たび-」の先のくだりは丸山による。丸山は別のところで、戦後の知識人が戦争について「悔恨共同体」を形成したと振り返った。それゆえ広範な知識人に、「反戦の旗を守りぬいた」共産党への「同伴者的追随の態度」がはぐくまれた、とも(「後衛の位置から」)。

 マルクスとレーニンによる共産主義思想は、実際は単なる「反戦」などではない。しかし丸山の記述から、戦後間もない日本で、平和憲法の擁護と、容共的な全面講和論が同時並行で起こった事情が読み取れる。

 戦争への反動は左傾した思潮となり、戦後日本を長く覆った。憲法改正が議論されていた昭和33年、進歩的知識人らは憲法問題研究会を作り、護憲勢力を形成した。

国益を損ねる

 共産主義や憲法議論を離れたところでも、いまなおこの反動が残っているのを感じる。

 会員候補の任命問題で日本学術会議が注目されている。任命方法の変更について政府による説明はあるべきだが、根っこのところを考えたい。

 学術会議の昭和25年の声明はそれまでの科学者の態度について反省し、「戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わない」とした。反動としての悔恨共同体の姿が見える。自衛戦争のための研究もだめということになる。

 42年にも同様の声明を出し、さらに平成29年の「軍事的安全保障研究に関する声明」でそれらを継承するとした。防衛省が創設した研究助成制度も批判している。この硬直した姿勢は国益を損ねる。

 理念を追究する学問はときに現実を超越した次元で、現実を批判したり理論化したりする。しかし学術会議は年約10億円の予算が国庫から計上された現実の存在でもある。

 あくまでも思考実験だが、他国に攻撃されて日本という国がなくなったらどうするのだろうか。そのときには現実の学術会議もなくなるのである。

 安全保障には常に現実的でなければならない。非武装による平和をなお考えるなら、世間知らずのそしりを免れ得ない。

 現在もこの問題で一部知識人や野党、朝日新聞、毎日新聞などがしきりと政権を批判している。日本の戦後の構造はあんまり変わっていない、と思ってしまう。(かわむら なおや)

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