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【日曜に書く】さっちゃんは生き抜いた 論説委員・長戸雅子

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地下鉄サリン事件が発生し、防毒マスクを着け完全武装して営団地下鉄霞が関駅構内に向かう捜査員=平成7年3月20日、東京・霞が関
地下鉄サリン事件が発生し、防毒マスクを着け完全武装して営団地下鉄霞が関駅構内に向かう捜査員=平成7年3月20日、東京・霞が関

 玄関からすぐのその部屋に今年3月に旅立った主の写真が飾られていた。事件に遭う4年ほど前、大好きな東京ディズニーランドで撮影されたものだ。遺影の左上に飾られたピンクと白のリボンがふっくらした笑顔によく似合っていた。

 平成7年3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件の被害にあい、寝たきりの状態となっていた浅川幸子さん(享年56)。死因はサリン中毒による低酸素脳症だった。

 25年の間、幸子さんの介護を担い続けてきた兄、一雄さん(60)は「亡くなった日も先日の納骨の日も雨。妹からの『サヨナラ』の涙だったのでしょうね」と話す。

 -まじめで、親思いで、片隅の幸福を穏やかに味わうようにして生きていた心優しい妹-

 地下鉄サリン事件の被害者にインタビューした村上春樹さんのノンフィクション「アンダーグラウンド」には一雄さんの目を通してみた幸子さんがこう描かれている。

 ◆お兄ちゃん、ゴメン

 「どうして幸子が…」。事件当日、警察から連絡を受けて駆け付けた都内の病院で一雄さんは床や壁を殴り続けていた。

 もっとも本人にその記憶はない。2、3日後にやけに手が痛いのに気づき、家族から教えてもらったのだという。

 幸子さんは勤務先のスーパーマーケットの新入社員研修のため、地下鉄丸ノ内線で中野坂上駅に向かう途中、被害にあった。普段の職場は両親と住んでいた東京近郊の自宅近くで丸ノ内線を利用する機会は年に数えるほど。そのわずかな機会に事件に遭遇してしまった。

 奇跡的に一命はとりとめたものの全身に重い障害が残り、言葉も不自由になった。

 一雄さんと家族の生活は一変した。数カ月後に父ががんで入院したため、月水金は幸子さん、火木土は父の病院に通い、帰宅は毎晩10時過ぎ。日曜日も「どこかに遊びに行きたい」という子供に「さっちゃんに会いに行ってあげようよ」と病院に連れて行った。「だれよりも頑張っていたのはさっちゃん。彼女の笑顔にこちらが力をもらった。でも家族には迷惑をかけたと思います」と振り返る。

 「オウム」「バカ」。ほぼ単語だけの言葉しか発せなくなった幸子さんだったが、一度だけ明瞭に聞き取れた発言がある。

 「お兄ちゃん、迷惑かけてゴメン」

 ◆テロの無益を示す世に

 転院や自宅療養を経て一時は支えがあれば起き上がれるほど回復した。丸ノ内線にサリンをまいた広瀬健一元死刑囚の上告審判決も見届けた。病状が再び悪化したのは3年前の秋。翌年7月にはオウムの元教祖、麻原彰晃元死刑囚ら13人の死刑が執行された。

 「自分にもし何かあったら幸子はどうなるのか」。こんな思いで25年を過ごした一雄さんはこう訴える。「妹は国を狙ったテロの犠牲になった。経済や精神面のケアも含めて被害を受けた人が一人になっても安心して生きられる環境を政府はつくってほしい」

 事件当初から寄り添い、「オウム真理教犯罪被害者支援機構」の副理事長を務める中村裕二弁護士は「被害者がすぐに立ち直ることができ、『テロなど起こしても何の効果も意味もない』とテロリストに分からせる社会。これができて初めてテロ対策といえるのではないでしょうか」と語る。

 麻原元死刑囚に今も帰依しているとされるオウムの後継団体は複数存在し、公安調査庁によると、資産の総額は昨年秋時点で約13億円にものぼる。

 戒名に刻まれた心

 20年ほど前、一雄さんに電話取材をしたときに聞いた言葉が忘れられない。「妹は体の自由や普通の生活を奪われた。でもオウムの悪意もサリンも彼女の優しさだけは奪えなかった」

 一雄さんは「最期までそこは変わりませんでした」と語る。

 事件前日、幸子さんがランドセルを贈った一雄さんの長男は今年父親に、事件当時2歳だった長女も母親になった。

 最後は新型コロナウイルスの影響で面会できない日が続いた。「新しい家族に会えていたらどれほど喜んでくれただろう。それが一番残念」

 そして「どうですか。いい戒名でしょう」と位牌(いはい)を見せてくれた。

 「優心」の文字が刻まれていた。さっちゃんがここにいると思った。全力で生き抜いたさっちゃんが。(ながと まさこ)

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